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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

八成水路4

2016-02-12 08:18:48 | 妙正寺川2

 八成水路をさかのぼっての最後で、八成小学校まできました。同校の創立は昭和30年(1955年)、水路の先端にあたる農地を造成して開校しました。なお、八成は「新編武蔵風土記稿」に「東の方上鷺ノ宮の界を云」と書かれた下井草村の小名ですが、地名由来に関しては「杉並風土記」(昭和52年 森泰樹)に、千川上水の八成橋とかかわる伝承が収録されています。観泉寺住職が経典から八成(はっせい)橋と命名、住民は「はちなり」と読み、いつしか地名になったというものです。明治に入り井荻村(のち井荻町)大字下井草の小字となり、昭和7年の杉並区制定に際し八成町に引き継がれましたが、現行の住居表示には採用されませんでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 通りの左手の幅が変わったところで左折、その先の通りの右手が水路を含んでいます。

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    2. 農地の残る区画を西に向います。なお、右写真で交差する通りが区制制定時の正保町と八成町の境でした。

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    3. 八成小学校のキャンパスに突き当たったところで終了です。

 <八成の水害>  以下は「井草のかたりぐさ -大正のころの八成-」(昭和61年 井口龍蔵)にある、「八成の水害」の抜粋です。この水害は「現在の八成小学校東、新青梅街道北側の一部の地域」で、「何年又は何十年かに一回、梅雨時又は秋の長雨等毎日雨が降り続いている時に発生」しました。その様子をリアルに再現した記述が続きます。「昔は畑の端に畦という溝があり雨水が溜まるようになっていて、降った雨水は全部地下水となったのです。毎日の雨で地下水位が上がり井戸水が杓で汲めるようになり、低地では水が湧き出るようになると水害になるのです。自然と湧き出したきれいな水が溜まり小さな池になり、農作物は全滅してしまいます。・・・・八成は皿のような地形のため集中豪雨の時も一時的に出水し水溜まりとなることもしばしばありました。」 この記述は最後に、「大正になって、この水害をなくすために排水溝を掘り下井草田圃へ流す工事を村費で行いました。」という、一度引用した一文でまとめられています。