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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

水戸藩邸

2019-02-22 06:38:50 | 神田上水

 水戸徳川家の初代藩主頼房が当地に屋敷地を拝領したのは寛永6年(1629年)、同年九月には後楽園を含む小石川邸が完成しました。当時の御三家は江戸城内吹上に屋敷があり、明暦の大火(1657年)後、吹上が防火上の理由から空地とされて以降、小石川邸が水戸藩上屋敷となりました。→ 「段彩陰影図」からも見て取れますが、小石川邸は大きく三区画から構成されており、東側の東京ドームのところは、小石川流域を宅地造成したもので、表御殿が置かれました。北側の小石川台上には台御殿が設けられ、その南側の舌状台地の先端は、切り崩されて回遊式庭園(後楽園)が造られました。神田上水は切り崩された小石川台を、迂回することなく東に抜けており、給水範囲を本郷台の裾まで拡大するうえで、不可欠な流路設計だったものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 巻石通りの終点の牛天神下交差点からのショットで、正面の建物のあるブロックから旧水戸藩邸になります。 

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    2. 神田上水が後楽園に流れ込む手前です。水戸藩邸当時は裏長屋のあったところです。 

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    3. 左折、右折のクランクで上水は後楽園内に流れ込んでいました。 

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    4. 上掲写真の塀の内側を振り返っての撮影です。10年ほど前の写真では、空堀の途中から給水されています。

牛天神下

2019-02-21 06:00:33 | 神田上水

 「江戸名所図会」で、牛天神下を流れているのが神田上水ですが、「御府内備考」の金杉水道町の記述によると、「町内持ち場所の分川巾凡三間程」ありました。これには橋が二本架かっていますが、元の安藤坂下に架かるのが前回最後の金杉橋です。「金杉橋 渡り凡四間、幅壱丈程、右坂通り町南地先に有之候、尤神田御上水え相懸り候同所諏訪町より同所龍門寺前え渡り候板橋を右の通相唱申候」 もう一つは牛天神表参道下にあるもので、巻石通りが牛天神下交差点に入るところに架かっていました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 牛天神社 牛石 諏訪神社」  「小石川上水堀の端にあり。一に金杉天神とも称す。此地を金杉と唱ふるによりてしか号く。別当は天台宗にして泉松山龍門寺と号す」(本文)

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    ・ 牛天神下  正面台上が北野神社(牛天神)、その下左手が巻石通りの終点です。「図会」に描かれた表参道は今はなく、左手の→ 裏参道のみとなっています。

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    ・ 北野神社  社殿の左手前にある頼朝ゆかりの→ 牛石は、なでると願いがかなうといわれています。なお「図会」の牛石は、裏門近くの蠣殻坂(牛坂)下に描かれています。

 <牛天神>  「社記云、往古寿永元年壬辰の春、右大将頼朝卿東国追討の時、此所の入江の松に船を繋ぎて和波を待給ふ。此辺上古は入江にて、今の飯田町東入堀のあたりへ続きてありしといへり。牛天神の外の坂を網干坂と呼び、又同所に蠣殻坂抔いひてあるも、入江に依りたる旧称なりといへり。その間夢に菅神牛に乗じ、頼朝卿に二つの幸あらん事を示し給ひ、武運満足の後は必小社を営み報すべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚て後傍を顧給へば、一の盤石ありて、夢中菅神乗じ給ひたりし牛に髣髴たり。依て是を奇異とせられしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。又翌年癸巳の夏は動かずして平家悉く敗しかば、其報賽として元暦元年甲辰此御神を此地に勧請ありて、神領等寄附ありしと、云々」(「江戸名所図会」)

 


巻石通り4

2019-02-20 06:54:19 | 神田上水

 金杉水道町の中央を南に下る坂が安藤坂です。「坂 高三丈弐尺程、幅四間」「往古入江にて罷在、猟師日毎に網を干候に付網干坂と唱、・・・・猶又里俗に安藤帯刀様御屋敷の坂に付安藤坂と唱候」(「御府内備考」) 安藤家は紀伊田辺藩主(紀州徳川家付家老)で、その上屋敷が坂の中腹にありました。坂上には伝通院、坂下は江戸川が右折する通称、大曲に架かる白鳥橋ですが、これは明治末に大曲、伝通院間に市電が開通してからで、それ以前には、東にシフトして牛込天神裏門前に通じていました。なお、網干坂の名前の由来として、御鷹掛の組屋敷があって、鳥網を干したからというのもあるようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 巻石通り交差点先の金剛寺坂を過ぎ、右に孤を描き始めます。 

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    2. 左手は旗本屋敷、右手は相変わらず大縄地だったところで、明治に入り金杉水道町などと共に、小石川水道町となりましたす。

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    3. 安藤坂交差点です。右写真は中腹から坂下の白鳥橋方向です。 

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    4. 安藤坂交差点の先で、牛天神と通称される北野神社下に出ます。

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    5. 金杉橋の架かっていたところです。なお、元の安藤坂はここで左折、牛天神裏門を経由していました。

巻石通り3

2019-02-19 06:09:46 | 神田上水

 巻石通りに戻ります。ここから先神田上水の維持管理の担当は、小日向水道町から小石川金杉水道町に移行します。「切支丹組屋敷より水戸様御屋敷迄小石川金杉水道町一手持に御座候」(「御府内備考」) 金杉水道町は元は金杉村に属する百姓地でしたが、神田上水の定浚いを命ぜられ、以来金杉水道町と称するようになりました。このあたりの事情は小日向水道町、関口水道町と同様です。ただ、明治に入り小石川水道町など、今は春日1、2丁目となって、金杉の名前は住居表示から失われました。なお、その名前の由来は不明ですが、「小田原衆所領役帳」に「金曾木内 法林院分 金剛寺分」とある、江戸開府以前からの地名だといわれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 小日向交差点で、左手は茗荷谷へ至る唯一の道路の入口です。ここに「里俗切支丹御組屋舗入口橋」が架かっていました。 

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    2. 新坂(今井坂)下に差し掛かります。坂の左手は15代将軍慶喜が明治末に居を構えたところです。 

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    3. 金富小学校前です。金富町は金杉水道町、富坂新町、金剛寺門前町などの合成地名です。 

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    4. 左手には金剛寺がありました。地下鉄丸の内線敷設に際し、→ 「江戸名所図会」にも描かれた古刹、金剛寺は中野区上高田に移転しました 

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    5. 巻石通り交差点です。ここから新白鳥橋にかけて、「郵便地図」は水路を描いています。

武島町

2019-02-18 06:06:31 | 神田上水

 巻石通りまで戻り、茗荷谷から発した大下水の流末を追います。第六天前町のところでUPした→ 「実測図」を見ると、神田上水を箱樋(懸樋)で越えた後、そのまま南下、次の通りにぶつかって左折、その左手を並行して東に向かっています。最終的には右折して、中之橋の先で神田川に合流していたようで、最後のところは「郵便地図」にも描かれています。神田上水を越え次の通りで左折するまでは、重なる道路がないため、今回はその左折したところから始めます。なお、タイトルの(小日向)武島町は、東に向かう水路の右手の、ほとんどが旗本屋敷だったところに、明治に入り成立した町名です。旗本武島某の屋敷があったため、そう呼ばれるようになりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 巻石通りの一つ南の道路から始めます。すぐ右折して神田川に合流する水路を描いている地図もあります。 

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    2. 巻石通りと並行するこの道路は、江戸時代、御持筒組大縄地の南縁に沿っていたもので、右手の旗本屋敷との境になっていました。 

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    3. 右手はホールや印刷博物館のあるトッパン小石川ビルのある一角です。

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    4. 突き当りを右折します。逆に左折すると、金剛坂下の巻石通り交差点です。 

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    5. 正面は中之橋と白鳥橋の間にかかる新白鳥橋、右手にトッパン小石川ビルが見えます。

茗荷谷4

2019-02-16 06:47:57 | 神田上水

 拓大東門前まで戻り、北側から合流する谷頭を扱います。丸ノ内線茗荷谷駅近くにあり、こちらも茗荷谷と呼ぶことに違和感はありませんが、「御府内備考」の記述からは、清水谷とすべきところのようです。「行方六左衛門抱屋舗林泉寺境通里俗清水谷と相唱」 これは春日通に面した清水谷町からの引用ですが、林泉寺門前のところでも、「戸田淡路守様下屋舗往来之所を清水谷と相唱」とし、最近まで清水が湧出していたが、道普請によって失われた旨付け加えています。なお、戸田淡路守(三河大垣新田藩)下屋敷跡地が現在の拓大キャンパスです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 拓大東門前から茗荷谷駅方向です。右写真は右手台上の深光寺境内から見下ろしています。  

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    2.  → 縛られ地蔵で有名な林泉寺門前で、林泉寺は目下改装中です。なお、左手の坂が小日向と大塚の境になっています。  

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    3. 茗荷谷駅に向かいます。冒頭の引用文中の「行方六左衛門抱屋舗」はこの左手にありました。

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    4. やはり「御府内備考」の記述によると、林泉寺門前から1町(≒109m)ほどのところに「姫ヶ井」という名水もありました。  

 <大塚の由来>  林泉寺前から西に向かう無名坂上に、「”大塚”ゆかりの地」と題する解説プレートがあり、「改選江戸志」の以下の記載を援用しています。「大塚通の南裏、小普請神尾豊後守組森川鉾太郎屋敷内に塚あり、高さ五尺斗、上に大樹の榎の朽木五尺斗残れり、是大塚なりと云、塚の脇に稲荷あり、大塚稲荷といふ」 さらに、塚は昭和の初めに崩され、稲荷も戦災で消滅したこと、塚は古墳だとか、中世の物見やぐら跡だとかいわれていたこと、最近の発掘で、5~6世紀の竪穴式住居跡が確認されたこと、などが付け加えられています。ただ、大塚が大きな塚なのは問題ないとして、その場所や使途、あるいは個数などに関しては、諸説入り乱れていて、当地はそのうちの一つにすぎません。

 


茗荷谷3

2019-02-15 06:27:18 | 神田上水

 丸ノ内線のガードの先は茗荷谷町と称する町屋でした。「町名の儀は昔より一円茗荷谷と相唱以前茗荷畑に而茂御座候哉・・・・下水 幅凡三尺 右下水堀之儀は町内南西之方に有之西之方より東之方え相流申候左水上は五軒町の方より相流悪水に而東方の流末は里俗に唱候切支丹御組屋敷後通より御上水掛樋え相流候」(「御府内備考」) → 「段彩陰影図」を見ると、茗荷谷の谷頭はY字型になっていて、茗荷谷駅近くの短いものと、西側から合流する長いものがありますが、引用文中の「水上は五軒町の方より相流」とあるのは、後者の比較的長いほうです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 拓大東門前を左手に折れると茗荷坂です。その手前の路地が谷筋の底に当たります。 

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    2. 路地はすぐ行き止まりになります。右写真は茗荷坂上からのショットです。 

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    3. これも谷筋の底にありますが、水路との関係は不確かなので、いつもの青点線は書き込んでいません。

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    4. 左手に崖面を見ながら西に向かい、やはり100mほどで行き止まりです。 

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    5. その先の通りを北側から見通しています。左手が旧五軒町なので、この坂下あたりが大下水の起点と思われます。

茗荷谷2

2019-02-14 06:11:24 | 神田上水

 東側の崖下に沿う道を北に向かい、庚申坂下を過ぎて100mほど来ました。これまで西側の車両基地下にあって、直接たどることのなかった水路ですが、ここから先は道路の西側を並行しており、いつもの青点線が復活します。さらに100mほどで藤寺と通称される伝明寺、そして、その傍らから小石川台に上る藤坂です。藤坂の解説プレートには、「藤坂は箪笥町より茗荷谷に下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり」と「改選江戸志」が引用され、一方、藤寺の由来については、三代将軍家光が鷹狩の折、境内の藤を称賛し、以来藤寺と呼ばれるようになったとの、「東京名所図会」の記事が載っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 水路と並行するのはこのあたりからで、明治末の「郵便地図」には、道路の西側に水路が描かれています。   

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    2. 伝明寺境内に沿います。右手の塀際には→ 観音水と呼ばれる湧水の名残が見られます。 

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    3. 伝明寺の先にある藤坂下です。左カーブの先には丸ノ内線のガードがあります。 

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    4. ガードをくぐると左手は蛙坂、その先は旧小日向茗荷谷町です。右写真は蛙坂から見下ろしています。 

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    5. 拓大東門前です。同校キャンパスはかっての三河大垣新田藩戸田家下屋敷です。  

庚申坂と切支丹坂

2019-02-13 06:09:00 | 神田上水

 → 「東京近傍図」にも描かれていますが、今回の谷筋の中央を横断する通りがあります。その両側にあるのが庚申坂、切支丹坂です。「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わつかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」(「改選江戸志」) 本来は左岸の小石川台に上るのが庚申坂、その対岸の切支丹屋敷にちなんだのが切支丹坂ですが、所在に関しては古地図類でもまちまちで、少なからぬ地図が庚申坂と混同しています。なお、「御府内備考」によると、「切支丹屋舗元表門通り」に獄門橋(幽霊橋)が架かっていました。「東京名所図会」が切支丹坂の説明に、「庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて」としており、今回の大下水にかかわるものなのでしょう。

 

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    ・ 庚申坂下  谷筋の東縁に沿う道路を北上する途中です。右手に折れると小石川台に上る庚申坂、左手のガード上は東京メトロ小石川車両基地で、丸ノ内線の車両が留置されています。  

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    ・ 切支丹坂  明治に入って開削されたもので、江戸時代の切支丹坂そのものではありません。なお、撮影地点の後方、数メートルが最も低くなっており、小溝に橋が架かっていたあたりと思われます。 

 「切支丹屋敷跡は浅利坂の北の方なり、構内およそ表の通四十八間余は北西の方へかけいり、北の方は六十間余、南の方八十間余、西の奥へいりては三十八間余といへり、昔はことに広かりしを、元禄十四年辛巳二月廿五日、北の方そくはくの地を御家人の宅地に賜へり、今七軒屋敷という」(「御府内備考」) 切支丹屋敷の始まりは正保3年(1646年)、初代の宗門改役、井上筑後守政重の下屋敷内にあった座敷牢に、切支丹を収容したのがきっかけで、享保9年(1724年)に火災で焼失するまで、いわゆる「転び伴天連」を収容、情報集めに用いました。

 

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    ・ 切支丹屋敷跡碑  坂を上った右手の住宅街の一角にあり、傍らには「東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡」と書かれた、都教育委員会の解説プレートが立っています。  

茗荷谷

2019-02-12 06:57:44 | 神田上水

 寺町の東隣りにある荒木坂を隔てて、第六天神前町がありました。上水の土手上に第六天社があったのが由来です。「御府内備考」はその第六天前町のところで、「幅凡五尺程」の「東之方御組屋舗境大下水」について、「御上水上箱樋に流行申候」と述べています。→ 「段彩陰影図」の中央から上部にかけての、谷頭に茗荷谷の名がある谷筋にかかわるもので、御先手組大縄地がその入口にあたる区画を占め、現在は東京メトロ小石川車両基地となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 寺町を過ぎ荒木坂下に差し掛かります。坂下には「長四間程幅九尺程」の板橋がありました。 

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    2. 箱樋のあったあたりから荒木坂の一つ先の路地を写しています。坂になっていないのに注目です。 

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    3. 右カーブの先は東京メトロ小石川車両基地に突き当たって中断です。 

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    4. 谷筋の東端に沿う道路から車両基地を写しています。同基地は敷地面積3万平方メートル余、車両留置能力は100両を超えます。

巻石通り2

2019-02-09 06:49:27 | 神田上水

 巻石通りを東に向かっての二回目です。音羽通りから旧水戸藩邸までの神田上水は、明治9年(1887年)頃、水質を保つため暗渠化されました。その際「巻石蓋」と呼ばれる石蓋をかけたことから、巻石通りの名前が生まれました。幅10尺の上水の上に、一枚の平石を渡したのではなく、数個の石をアーチ状に組んで蓋をしたようです。明治初めの「実測図」に描かれているのは、この巻石蓋による暗渠の様子と思われ、橋も撤去されないままになっています。なお、大正の初めには巻石蓋に代わって、直径3尺の鉄管二本が埋められましたが、昭和に入ると、砲兵工廠への給水停止により、神田上水自体の歴史も幕を閉じました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 服部坂下です。坂名の由来となった旗本の屋敷跡には、明治に入り→ 小日向神社が祀られました。  

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    2. 大きく左カーブするこのあたりまでが旧小日向水道町でした。この先右手は御持筒組(将軍警護の鉄砲隊)の大縄地です。 

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    3. 一転右カーブです。この先左手は寺町になります。左岸の大縄地ともども、上水の安全確保のための配置なのでしょう。 

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    4. 小日向の地名由来にも出てきた鶴高山善仁寺前に差し掛かります。 

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巻石通り

2019-02-08 06:48:05 | 神田上水

 音羽通りを越えた神田上水を追って、巻石通り(水道通りとも)を東に向かいます。「神田御上水 右者承応二年の頃掘割に相成候由、尤白堀通と相唱申候、右唱訳相知不申候、幅凡五間程、但不同に有之、且西の方関口水道町より当町内の地所に移り、北の方四町程相流、東の方津田外記様御組屋敷の方へ流行申候」「御府内備考」の小日向水道町の記述です。「右唱訳相知不申候」とありますが、白堀というのは素堀と同様、開渠の水路を指す言葉です。なお、承応2年(1653年)の当否については、今回のクールの冒頭で触れたとおりです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 江戸川公園を出て音羽通りを越えるところから始めます。正面奥が巻石通りです。  

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    2. 東側の鼠ヶ谷下水(水窪川)と交差します。 

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    3. ほぼ真東に向かう巻石通りです。この右手の神田川(江戸川)までの間が、旧小日向水道町でした。 

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    4. 大日坂の上り口です。坂の中腹にある妙足院大日堂が坂名の由来で、→ 「江戸名所図会」にも描かれています。 

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    5. 文京総合福祉センター前です。センター建設前の調査で神田上水の白堀跡が発掘されました。  

小日向村

2019-02-07 06:41:01 | 神田上水

 「小日向の地は古へ小日向村と号す、・・・・御入国以後は御料にして正保年間は御代官及び町年寄三人の支配たり、明暦二年村内へ町屋を起立せられ、寛文十二年より御代官のみの支配に属し、元禄改には小日向町と記せり、其後次第に町屋増加して、正徳三年町方支配に属し、十一ヶ町に分れて御府内町並となれり、されど其地の貢物は元の如く御代官進退す、然りしより残れる在方分の地五町六段四畝十五歩となれり」 これは、神田川右岸に残った小日向町在方分に関する「新編武蔵風土記稿」の記述ですが、本来は左岸の小日向台地を中心とする地名です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半が文京区、下端が新宿区です。  

 小日向の名前は「北条役帳」に「恒岡弾正忠十六貫五百七十文小日向之内」などとあるのが初出で、地名由来については、「続江戸砂子」(享保20年 1735年 菊岡沾凉)がよく引用されます。「小日向 往古此所は鶴高日向と云人の領地なり。断絶の後古日向の址といふを、いつの比か小日向といひ来れり。上水端鶴高山善仁寺と云一向宗の寺は、此鶴高の開基也」 もっとも、この一節を引用している「新編武蔵風土記稿」も、「其拠を知らず」と否定的な扱いです。なお、小日向の読みは、現在の住居表示では「こひなた」ですが、「こびなた」も優劣つけがたく共存しています。

 

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    ・ 小日向神社  明治2年(1869年)に小日向の鎮守で、日輪寺上にあった氷川神社と、音羽の田中八幡宮が合祀、小日向(こびなた)神社になりました。 

 冒頭の引用文中にあった明暦2年(1656年)起立の町屋が小日向水道町です。関口水道町や金杉水道町と同様、神田上水の定浚いなど、担当個所の維持、管理を負担したことから、水道町の名前が付けられました。当初は他の水道町と同じく江戸の町年寄三人が代官を兼ねていました。町年寄というのは、町奉行の下、町名主の上にあって行政を司る町役人の筆頭で、江戸の場合は御入国当時から世襲の奈良屋、樽屋、喜多村の三家が勤めていました。彼らは元禄6年(1693年)、上水支配が道奉行の所轄となるまで、上水の維持、管理にもかかわっており、芭蕉のところで引用した神田上水の惣払いに関する町触れも、この三人の名前で出されたものです。

 


鼠ヶ谷下水

2019-02-06 06:01:53 | 神田上水

 神田上水は江戸川公園を抜け、音羽通りを越えます。その音羽通りを越える手前で弦巻川と、越えた先で水窪川とクロスします。天和元年(1681年)、五代将軍綱吉が護国寺を創建、その参道として音羽通りを開いた際、通りの両側を流れる人工的な水路となり、共に鼠ヶ谷下水と呼ばれるようになりますが、この大下水は神田上水と交差する際、暗渠となってその下を通過していました。上下水が交差する際は、文字通り上水は上を、下水は下を通るのが基本的なパターンです。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基(72dpi)で掲載しています。

 以下は「御府内備考」の引用で、音羽通りの南端を占める桜木町にかかわるものです。「埋樋二ヶ所 右は東西鼠谷下水落口に而横一間建五尺程有之石に而たゝみ神田御上水並道下共凡七間程相懸り江戸川へ相流落申候・・・・万年樋と相唱申候」 一方、上水の方は谷筋を越えるため、若干の底上げが必要で、中堤三ヶ所が設けられました。その規模は高さ2尺ないし7尺、幅は5尺、これは桜木町の対岸の小日向水道町の記述です。

 

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    ・ 江戸川公園  音羽通り手前の江戸川公園で、高架は首都高5号池袋線です。神田上水はこの付近で、西側の鼠ヶ谷下水(弦巻川)と交差していたものと思われます。 

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    ・ 江戸川橋  音羽通りに架かる江戸川橋の左岸には、東西の鼠ヶ谷下水を代替する雑司ヶ谷、坂下下水道幹線の雨水合流口が口を開いています。手前の開口は江戸川橋分水路の呑口です。

江戸川公園

2019-02-05 06:39:13 | 神田上水

 大洗堰跡から音羽通りまでの神田川左岸は、神田上水跡や段丘斜面を含む、延長500mほどの細長い公園になっています。公園として整備するきっかけとなったのは、明治43年(1910年)の大洪水のあと、大正に入ってから着工された神田川の護岸改修工事でした。完成は大正8年(1919年)ですが、同じ年に公園も開園し、当時の神田川の名前から江戸川公園と名付けられました。(音羽通りに面した公園入口には、「江戸川公園」と表書きのある大きな石碑が建っていますが、裏面には大正14年の日付が刻まれています。)

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」  江戸川公園を薄いグリーンで重ねています。公園開設後も神田上水が一部開渠で併存していたのが分かります。

 さらに、昭和の初めの取水の廃止、大洗堰の撤去や堀割の埋め立てを経て、現在の形に整備されました。江戸川公園といえば、お花見のスポットでもありますが、神田川の拡幅工事に伴い、昭和58年(1983年)に植えられた、比較的新しいものです。なお、神田上水は上水としては明治34年(1901年)に廃止されましたが、その後も、水戸藩邸跡に建てられた砲兵工廠の工業用水として存続、その移転に伴い昭和10年(1935年)頃までには取水が停止されました。

 

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    ・ 江戸川公園  大瀧橋左岸を振り返って撮影しています。江戸川公園のなかで最も幅の広いところで、江戸川と神田上水はこのあたりで分かれていました。

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    ・ 江戸川公園  一休橋の下流の最も幅の狭い個所です。「御府内備考」によると、この付近の江戸川と上水は「高八尺幅五間程」の中堤で隔てられていました。