goo blog サービス終了のお知らせ 

神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

関口大洗堰2

2019-02-04 06:42:28 | 神田上水

 以下は「新編武蔵風土記稿」の描く、江戸川と神田上水の分流の様子です。「神田上水堀 北寄りにあり、幅五間余。東の方に至り、中間に堤を築きて二派に分ち、一派は上水となり、一派は堰を設けて江戸川に注けり。上水の流れ分派より五十間許を経て、余水江戸川に沃くもの二あり、一は里俗関口の瀧と称す、幅九尺、一は水幅五尺程瀧壺いと深き故、俗に摺鉢の瀧と称す」 「上水記」付属の大洗堰の平面図をみると、「大洗堰」下流に「小洗堰」および「小吐口」が並んで描かれ、江戸川の対岸にある水車(「持半兵衛」及び「持善左衛門」)まで、二本の懸樋が渡されています。

 

Oaraizu1

    ・ 関口大洗堰平面図   水道橋の傍らに設けられた文京区土木部公園緑地課の解説プレートに、「上水記」をベースにしたと思われる関口大洗堰の平面図が掲載されています。

0917a

    ・ 取水口の石柱  大洗堰の取水口に、水量調整のための角落(かくおとし)と呼ばれる板をはめ込むための石柱で、大洗堰の廃止に伴い撤去されたものが保存されています。 

 「御府内備考」の関口水道町のところの記述によると、半兵衛水車は元禄13年(1700年)の稼働で、その規模は「差渡壱丈七尺幅壱尺八寸」、懸樋は「長二十三間横二尺二寸深サ壱尺三寸」とあり、米搗と製粉を業としていました。安永3年(1774年)には、数十メートル下流に善左衛門水車も稼働し、こちらは綿実油絞りのためのものです。また、幕末の文久2年(1862年)には、関口大砲製造所が当地に建設され、砲身に穴を穿つ動力として水車が利用されました。ただ、時代遅れの青銅製大砲だったので、間もなく鉄製大砲製造のための反射炉が、滝野川に建設されることになります。

 

0917b

    ・ 神田川  一休橋から下流方向のショットです。二本の懸樋のうち上流側の半兵衛水車のものは、このあたりに渡されていました。 

関口大洗堰

2019-02-02 06:20:45 | 神田上水

 「堰 神田上水と江戸川の分水口にあり、大洗堰と号し、御普請所なり、石にて築畳み、大さ長十間幅七間の内水口八尺余、側に水番人の住せる小屋あり」(「新編武蔵風土記稿」) 大正8年(1919年)の調査では、「旧堰堤は上幅八間で両側に高さ約二尺の袖石垣があって、中央部に幅八尺、深さ五尺の溝を有し、奥行八間通りを石畳とした石造堰堤」とあり、基本構造は変わっていないようです。この調査の際、水門を鉄製にするなど若干の改修も行ったようですが、結局、大洗堰からの取水は昭和の初めには廃止され、江戸川改修工事によって堰自体も撤去されました。

 

Sekizue1

    ・ 「江戸名所図会 / 目白下大洗堰」  天明6年(1786年)の洪水で崩壊、従来より一尺ほど低くして再建したので、増水時オーバーフローが機能し壊れなくなった旨、本文に記されています。

0916a

    ・ 関口大洗堰跡  江戸川との分岐点の大洗堰は、現大滝橋のやや下流にありました。昭和の初めに大洗堰からの取水は停止され、神田上水の流路を含む細長い区画は、江戸川公園として整備されています。  

 延宝8年(1680年)に深川に移るまでの4年間、松尾芭蕉は当地で神田上水にかかわりました。同年6月11日の町触に、「神田上水の水上の惣払い(大掃除)につき、桃青方へ申し出るように」といった記述があり、桃青は当時の芭蕉の俳号です。この町触から読み取れる芭蕉の仕事は、惣払の受け持ちの打ち合わせ、徹底、記録といったところで、水利、土木の専門職説から雇われ人足説まで諸説ある中で、町年寄の下で働く手代、あるいは水番人あたりと思われます。

 

0916b


神田上水2

2019-02-01 06:27:25 | 神田上水

 神田上水のうち、関口大洗堰以降の人工的な区画についても、その成立年代を確定する史料はありません。「御府内備考」は「神田御上水 幅四間余 右は承応二年之頃掘割に相成候由尤白堀通しと相唱候」と、承応年間(1652~1655年)のこととし、「新編武蔵風土記稿」は、「此上水は御打入の後幾程もなく堀通せられし事は『武徳編年集成』等にも載たり、・・・・今の如く直流となりしは承応二年よりのことなり」と書いていますが、「寛永江戸全図」(1643年頃)や「正保年中江戸絵図」(1644年頃)には、今日確認できるのと同様の掘割が描かれており、開削にしろ直線的な改修にしろ、寛永年間までさかのぼるのは間違いないところです。

 

Kaneizu1

    ・ 「寛永江戸全図」  寛永20年(1643年)頃とされる「寛永江戸全図」(之潮刊)をイラスト化しました。右端の茶で囲んだのは水戸藩邸(現小石川後楽園)で、小石川(谷端川)も大下水化しています。 

 承応以前の二つの「江戸図」と、「明暦江戸大絵図」(1657年頃)や → 「寛文図」(1672年)を見比べると、直線的な改修がされているのは、神田上水を分岐した後の江戸川の方で、おそらくそれとの混同があったのでしょう。あるいは承応2年(1653年)は玉川上水の開通した年でもあり、それとの混同の可能性も考えられます。ちなみに、引用した「新編武蔵風土記稿」は小日向古川町にかかわるもので、同町は江戸川が蛇行しているところに、寛文元年(1661年)頃成立ました。町名はこの個所の江戸川の旧名によっています。 

 

0915a

    ・ 小石川後楽園  水戸藩上屋敷(当初は中屋敷)内の庭園、後楽園は成立当初から神田上水の水を利用、明治に入り砲兵工廠用地となってからも、昭和初期まで工業用水として利用がありました。 

 確定的な史料はありませんが、関口以降の掘割が今日確認できるような形で完成したのは、3代将軍家光の治世が始まった、寛永年間(1624~44年)初頭とする説が有力です。関口の地名が文献に登場するのは寛永2年で、関口が大洗堰とかかわっていると考えれば、これも有力な状況証拠となります。また、上述の水戸藩中屋敷の成立は、「水戸紀年」によると寛永6年(1629年)、同年には家光が水元を井の頭池と命名したとの伝承もあり(「江戸名所図会」ほか)、これらは神田上水の完成後のことと考えられるからです。(神田上水の成立を寛永6年、ないし寛永6年頃とする文献も多く、都水道局のホームページでもそうなっています。)

 


神田上水

2019-01-31 06:21:50 | 神田上水

 神田上水の最大の水元は井の頭池で、途中、善福寺川や妙正寺川を合わせた、現在の神田川の上流そのものでした。多少の手は加えられているとしても、基本は自然河川といっていいでしょう。この自然河川を上水として利用したのは、いつ、また誰によってなのか。確定的な文献に乏しく、伝承としては大きく分けて二つあります。一つは天正18年(1690年)の家康入国の際、三河譜代の家臣、大久保藤五郎によってというもの、もう一つは慶長から寛永年間にかけて、神田上水水元役内田家の祖、「武州玉川辺之百姓」六次郎によってというものです。

 

Josui1

    ・ 「段彩陰影図 / 神田上水」  関口大洗堰から水道橋懸樋までの神田上水及び(左から)弦巻川、水窪川そして小石川の大下水が神田上水と交差する個所を、明治初期の参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」を元に重ねました。  

 最初の大久保藤五郎説ですが、その功により主水(もんど)の名を賜わり、水は濁りを嫌うというので「もんと」と称したとか、あるいは、家康が井の頭池を訪れた際自ら茶を立て、使用した茶臼は井の頭弁財天別当大盛寺に、→ 茶釜は主水に与えたとの伝承もあります。この説に対しては、慶長までは上水はなかったとする「慶長見聞集」(三浦浄心)の記述から、「御府内備考」は入国当時の主水の事跡に関して、「ただ其頃上水の命ありて、水利を考え申させ給ひし」程度としています。あるいは、主水が開発したのは水源や給水範囲などでより小規模な小石川上水、ないしプレ神田上水とする仮説もありますが、いずれにしても、三河の武士だった大久保主水が着任早々、すべてを取り仕切ったとするのには無理があります。

 

0914a

    ・ お茶の水  井の頭池の北端にある湧水です。「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています」(都の解説プレート) 

 そこで、もう一つの伝承がクローズアップされます。のちに神田上水水元役となる内田家の祖、六次郎によって、井の頭池が水源として開発されたというもので、こちらは「上水記」収録の内田茂十郎の書上によっています。「上水記」の中では「無証拠難取用といへとも」と、否定的な扱いではありますが、玉川上水や千川上水などの例からも、水元役を任された以上、何らかの功績は考えられ、あるいは、大久保主水が責任者となり、六次郎が現場で補佐したとか、主水の着手した小規模な上水に、六次郎の井の頭池開発が結びついた、といった何らかの補完関係があったのかもしれません。現在目にすることのできる文献からは、最も合理的な解釈のようにも思えますが、いずれにしても決め手を欠いていて、軽々に決着のつく問題ではありません。