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江戸市中の上水網は樋と枡で構成されていました。その機能、構造、材質にさまざまあり、「上水記」は次のように説明しています。「地中に樋を通し枡を置、埋枡あり水見枡あり、埋枡は地中に有、水見枡は地上にあり、又高枡有、懸樋あり、分水の所にわかれ枡あり、水見枡のふたをあけて水勢を常に考ふ・・・・高枡にてせき上る登り竜樋は上る所にかまへ、下り竜樋は引落す、みな其地の高低にしたかふ、しかれとも水元より高くは上らす、ひきく落し高く上て水勢を増、又河又は堀の水底を潜る所もあり、是を潜樋といふ、橋の下にそひて向ふの岸にわたる所もあり、渡樋といふ、又懸樋といふ、石にて流を通す所万年樋といふ、樋なく流る所を白堀といふ、他方にて素堀ともいふ」
- ・ 「江戸名所図会 / 竹女故事」 「新著聞集に云、江戸大伝馬町佐久間勘解由が召仕の下女たけは天性仁慈の志深く、朝夕の飯米己が分は乞丐人に施し、・・・・」(本文)
描かれた井戸が上水井戸か、それとも掘抜き井戸かは定かではありませんが、少なくとも、大伝馬町は神田上水の給水範囲で、また、水道歴史館で展示されている上水井戸の模型と、つるべ竿も含めデザイン的には一緒です。庶民の場合、裏長屋などでの共同使用が一般ですが、武家屋敷なので、このように屋敷に引き込んでの単独使用もありました。
- ・ 木樋と木枡 丸ノ内3丁目の阿波徳島藩上屋敷跡地から発掘されたもので、水道歴史館で展示されています。(溝を潜らせるために、一段下げた木樋を連結していて、潜樋と同じ構造です。)
- ・ 上水井戸 同じく水道歴史館に展示されています。通りまで来ている木樋との間は竹樋で連絡され、井戸に溜まった水はつるべで汲み上げていました。正面の穴に竹樋を通していたのでしょう。