神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

北新井3

2015-07-21 07:39:18 | 千川用水4

 中新井村分水の三本目、明治10年の「星野家文書」に字北新井と書かれている分水の三回目です。→ 「昭和12年第四回修正」にあるように、目白通りを越える際、やや右手にシフトした後も、狭い路地となって南下、二百数十メートルで江古田川に余水を落とします。合流地点は北江古田橋の下で、下新街口からの分水が合流するほんの40mほど下流です。なお、北新井も一帯の字ですが、上、下新街と違って、「新編武蔵風土記稿」に「北荒井」の表記で収録されており、明治に入っても引き継がれました。中新井村の北部に位置するの意なのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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  •  「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

     

     

     

     

     

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    1. 水路単独の路地からいったん抜け、都営アパートの建っている一角に出ます。

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    2. 再度路地に入り、ワンブロックで左に折れます。 

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    3. 最後のワンブロックです。正面に水色に塗られた北江古田橋が見えてきました。  

 <中新井村の字>  「新編武蔵風土記稿」に収録されているのは、本村、徳田、神明ヶ谷戸、原、北荒井、中通です。うち最初に開拓されたと目される本村は、中新井川中ほどの左岸にある氷川神社や正覚院の周辺、徳田は「得田」で、検地帳に記載されなかったため、年貢を免れ得をした田んぼの意で、江古田村にも同様の字があり、川を挟んで両村にまたがっていたのでしょう。徳殿公園や下徳田橋にその名を残しています。神明ヶ谷戸は中新井池から流れ出た川が、左カーブで東に向きを変えるあたりとされ、谷戸は台地に刻まれた谷筋を現わす普通名詞です。北荒井は村の北から東にかけて江古田村に接し、中通は本村と北荒井に挟まれた区域です。一方、千川上水の流れる台上は広く原と呼ばれ、明治に入り、上、下新街などに分かれました。