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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下新街

2015-07-15 07:12:08 | 千川用水4

 現桜台駅前交差点付近には石3枚の石橋が架かり、三枚橋と通称されていました。「千川素堀筋普請所積見分」も、筋違橋と思われる橋から377間(≒686m)の所に、「練馬村ノ石橋 三枚渡七尺」と書いています。その三枚橋のすぐ下流に、中新井村分水の二番目、下新街の分水口があります。ただ、見分の行われた安永9年(1780年)には、この場所に分水口はありませんでした。所在が最初に確認できる明治10年(1877年)当時の樋口1.5寸四方は、中新井の三分水中最も小さく、また、同14年に東京同潤社が千川の水を利用して操業を開始した際、1.5寸四方中5分四方の権利を譲ったのもこの分水口です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 桜台駅前の交差点からのショットで、右手に顔をのぞかせている路地から始めます。 

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    2. 水路跡の路地はワンブロックで終了です。正面は豊玉第二小学校のキャンパスです。 

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    3. 2.の延長上にある中新井公園の東縁に沿う道路で、すぐに左カーブします。中新井公園が区画整理事業によりできたことは前回触れました。

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    4 右写真は右手からのショットで、浅い谷筋にあるのが分かります。

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    5 豊玉陸橋下で環七通りを越えます。環七通り、豊玉二中キャンパス、目白通りと連続するここから先の区間の水路跡は失われています。

中新井村分水2

2015-07-14 07:02:38 | 千川用水4

 1/10000地形図の「昭和12年第四回修正」は「迅速測図」や「東京近傍図」を含め、中新井分水(下新街)及び同(北新井)が登場する最初で最後の地形図です。中新井地区の土地区画整理事業や、その一環としての水路の改修は、この地形図の時代に行われました。下新街口からの分水の途中にある中新井公園内の解説プレートには、昭和8年(1933年)から土地区画整理事業が行われたとありますが、同時期の環七の着工や目白通りの開設とも相まって、一帯が農村から近郊住宅地へと変貌する端緒となった事業で、「第四回修正」にはその途中経過が反映されています。なお、中村分水や三つの中新井分水、さらに江古田分水、葛ヶ谷(落合)分水と、同時期に同様の改修がされた分水は、今でもほとんど痕跡が残されていますが、それはこの改修後の直線かつ単線化された流路だということになります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 板橋」と「同 / 新井」の合成です。
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    ・ 中新井公園  中新井分水(下新街)の流路にあり、中新井第一区画整理組合が昭和8年から事業を開始、同12年に練馬区で最初の都市公園として誕生した旨の解説パネルが展示されています。

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    ・ 北新井公園  中新井分水(北新井)の流路上の北新井公園内にも、昭和10年(1935年)に認可され中新井第三土地区画整理組合の記念碑が建っていて、5年の歳月と15万円の資金を費やした旨記されています。

矢島水車

2015-07-13 06:16:24 | 千川用水4

 千川上水は前回テーマの筋違橋で、道路の南側から北側にシフトしますが、そのまま南側に沿う水路が分岐していました。明治10年代後半と目される「千川上水路図」に描かれた八基のうち、上流から四番目の水車で、オーナーの名前から矢島水車(のち北島水車)と呼ばれたものの回し堀です。下掲「東京近傍図」にも描かれていますが、確認のため、練馬駅の南にあたる該当個所を→ 拡大しました。なお、この水車は「大正10年第二回修正」まで描かれていますが、それ以降の地形図にはなく、武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」でも言及されていません。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部に加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどになっています。オレンジ線は練馬と中野の区境で、元の中新井と江古田の村境です。

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    ・ 千川通り  練馬駅前の次の消防署前交差点からのショットで、矢島水車は右手の一角にありました。回し堀は通りをやや離れ、消防署と警察署の間あたりを抜けていたようです。

 <もう一つの中新井分水>  この回し堀と関連して、練馬区土木部「緑と水の練馬」(平成元年)は文献上にはない、もう一つの中新井分水について書いています。「千川上水は西方にあった筋違橋から道路北側に移っているが、その分水がそのまま千川通り南側を東に流れ、豊多摩上2-27付近にあった水車にかかっていた。この分水途中から南に流れ、中新井川に通じる。さらに練馬郵便局南側にあった池からの小流れが、三の橋をくぐり、豊玉中3丁目付近で当分水に合流していた。現在地中埋没」 → 「段彩陰影図」に見るように、利用した谷筋は明らかですが、昭和一ケタに着手された、環七や環七から練馬駅に向かう道路(都道442号)によって、中新井の他の分水に比べ痕跡はほとんど失われ、今日たどることは困難です。

 

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    ・ 水路敷きの路地  消防署の南、400mほどのところにあるワンブロックだけの路地で、水路敷と明記されています。今回の分水とかかわるのでしょうが、前後のつながりは不明です。

筋違橋

2015-07-11 06:58:12 | 千川用水4

 石神井村の筋違橋で入れ違って以来、千川上水は並行する通りを右岸に見てきました。それが→ 「東京近傍図」にあるように、目白通り(清戸道)と交差するところで、いったん通りの南側にシフト、350mほどそのまま進み、練馬駅前で改めて北側に戻ります。この北側に戻るところに架かっていたのも、やはり筋違橋という名前でした「石橋 下練馬村ニアリ筋違橋長一間一尺幅一間四尺」(「東京府志料」) 「千川素堀筋普請所積見分」が「石橋石六枚・・・・是より五間下り寅卯ニ向」としているのも、この筋違橋のことと思われます。同「見分」が方角を書いているのは、流れの向きに変化のあるときで、場所を特定する際の手掛かりの一つとなっています。

 

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    ・ 千川通り  豊島園通り入口交差点の次の交差点からのショットです。筋違橋は次の信号との間にあって、、右手前から左奥へと斜めに架かっていました。

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    ・ 筋違橋跡  親柱を復元した記念碑が、通りの左右にはす向かいに立っています。斜めにに架かっていた橋の位置を再現しているのでしょう。

  <筋違橋記念碑>  記念碑の裏面には武蔵学園提供の筋違橋の写真が載っていますが、武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」に掲載されているもので、「板橋區中新井三丁目。武蔵野線練馬驛附近。丁度練馬の街の中央部で河が道路の南側から北側に移る。コンクリートの筋違橋を架してある。寫眞は上流に向かって寫した。橋畔の小さい堂宇が昔の面影を残してゐる。」と注記されています。上掲写真の記念碑は下流に向かってのショットなので、逆向きということになります。

 

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    ・ 筋違橋記念碑  写真と共に「この石碑は、昭和30年までこの地にあった千川上水の筋違橋(すじかいばし)の親柱を復元したものです。写真は昭和15年頃の暗渠化される以前の筋違橋。」と書かれたプレートがはめ込まれています。

清戸道

2015-07-10 06:34:06 | 千川用水4

 千川上水の本流に戻ります。→ 「東京近傍図」に重ねたように、すぐに目白通りと交差しますが、そこから先の千川上水に沿ったのは、清戸道と呼ばれる古道でした。江戸川橋を起点に目白台上を通り、練馬から保谷、東久留米を経由、清戸(現清瀬市)に至る通りで、途中南長崎6丁目のV字ターンからここまで、現在の千川通りと重なっています。早朝大根などの農作物を市中に運び、夕方までには下肥を積んで戻る、沿道の農民にとっては不可欠な生活道路でした。なお、清戸道の呼称は明治に入ってからのもので、例えば「新編武蔵風土記稿」の長崎村の項では、「雑司ケ谷村より練馬村に通する往来あり、幅五間」といった書き方です。

 

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    ・ 千川通り  豊玉北6丁目交差点からのショットです。クロスするのが現目白通り、清戸道は正面奥の千川通りから、左手の目白通りへと折れていました。

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    ・ 千川通り  豊玉北6丁目交差点の次、豊島園通り入口交差点からのショットです。この区間の千川上水は、清戸道の右手に沿っていました。   
 <石神井川揚水路>  武蔵高校の生徒が千川上水の調査をした昭和15年(1940年)当時、石神井川の水をポンプで揚げ千川上水の増量を図っていました。「廣い新道を横斷すると練馬の宿である。半ば田舎らしい商店街が筋違橋まで續く。・・・・日川地蔵と筋違橋との略々中間の地點では、一清流が豊島園の方面から千川に流入する。これは石神井川を揚水して千川に合流せしめる水路で、明治以来下流の工業用水としての、千川の水量不足を補ふためのものである。」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」) 練馬区郷土資料室の図録「千川上水展」には、昭和10年に中之橋下流からポンプで揚水とあり、一方、元となった文献は未確認ですが、「ウイキペディア」には、石神井川西早宮橋付近で揚水し、豊島園通りの下を通ったこと、昭和17.8年頃暗渠化されたことが書かれています。(中之橋の下流が西早宮橋なので、その間で揚水していたのでしょう。西早宮橋の写真は→ こちらです。) 

 

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    ・ 石神井川揚水路跡  豊島園通り入口交差点のすぐ先、右手斜めに切り込んだ60mほどの路地が、石神井川揚水路の痕跡で、その先は豊島園通りです。   

中新井川

2015-07-09 06:46:52 | 千川用水4

 中新井川は妙正寺川の一支流で、練馬区立学田公園から発し、途中練馬、中野の区境を形成、中野区立江古田公園で妙正寺川に合流する、延長約3.2kmの自然河川です。うち下徳田橋から合流までの約1.6kmが開渠となっており、この部分の行政上の呼称でもある江古田川のほうが一般ですが、ここでは中新井村分水や中新井池とのかかわりから、あえて中新井川をタイトルとします。水源は中新井池(現学田公園)の湧水でしたが、江戸後期には涸れたため千川上水の助水が主な水源となり、「新編武蔵風土記稿」は中新井村(中荒井村と表記)の項で、「用水は仙川上水の分水を引用する」としています。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 中新井川」(1/36000)  中新井川(江古田川)に注ぐ千川上水の分水は、左から中村、中新井村(上新街)、同(下新街)、同(北新井)、そして江古田村の各分水です。書き込まれた流路は、昭和10年代前後の土地区画整理事業によるものです。

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    ・ 中新井川児童遊園  学田公園の南にある細長い公園で、暗渠化された中新井川の上に設けられています。左手にカーブしながら200mほど続き、その先の中新井川緑道へと連続します。

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    ・ 下徳田橋  暗渠上の中新井川緑道が1kmほどで終り、その先の下徳田橋以降が開渠となります。なお、上掲「段彩陰影図」では暗渠部分を青点線で表示しました。

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    ・ 合流地点  江古田大橋からの撮影で、手前の溝のあるのが江古田川です。妙正寺川の一支流としての江古田川(中新井川)については、妙正寺川のシリーズでこの地点からさかのぼります。

学田公園

2015-07-08 06:52:30 | 千川用水4

 → 「東京近傍図」中で、薄緑を重ねたのが練馬区立学田公園です。元々は中新井池と呼ばれる、中新井川(江古田川)の源流のあったところです。享保10年(1725年)の「江古田村鑑帳」に「当村川 水上西ハ中荒井村池より、東ハ落合川江流申候」とあるのがそれで、規模は文政6年(1823年)ごろ、「東西三十間 南北百五十間」(「地誌調置写」)でした。それがどのような経過で学田公園となったのか、公園の北西角に設けられた「学田公園と中新井川」と題する解説プレートを、項を改めて引用します。

 

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    ・ 中新井分水  中新井分水(上新街分)の流路から見た学田公園です。正面奥の右手から→ 中村分水が合流していました。  

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    ・ 学田公園  現在の公園は野球グランドを中心に、周囲に遊歩道をめぐらしています。写真は公園の北西角からのショットで、右下には解説プレートも見えています。

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    ・ 中新井川  学田公園の西縁に沿って南下します。カラー舗装の歩道をこのまま進むと、暗渠化された中新井川の上にある中新井川児童遊園、中新井川緑道へと連続します。  

 <「学田公園と中新井川」>  「学田とは、『学校の田んぼ』という意味です。明治9年に南蔵院境内に創設された公立小学校(現在の豊玉小学校)が明治17年、現在地に移転したのち、学校の運営資金を生み出すために、村人たちが沼地になっていたこの地を開墾して、学校田を作ったことに由来しています。昭和15年頃に周辺の土地区画整理事業が完成し、田んぼは公園になり、学田公園と名付けられました。付近には、湧水を源とした池があり、江戸時代には中新井池と呼ばれていました。この池を水源とした流れを中新井川と呼び、流域の水田を潤していましたが、江戸時代後期には池の湧水が枯れたため、北の千川上水から分水されました。」 なお、中新井池の水枯れについて、練馬区土木部「緑と水の練馬」(平成元年)は、明和8年(1771年)の「江古田村鑑帳」に「旱損」とあることを指摘しています。

 


上新街

2015-07-07 06:50:18 | 千川用水4

 三本ある中新井村分水中メインの、明治に入ってからの字から、上新街(かみしんがい)と呼ばれているものの流路をたどります。といっても、元々中村、中新井村の境に沿っていたため、現在の住居表示でも右手中村(北1丁目)、左手豊玉(北6丁目、中4丁目)の境となっていて、地図上でも一目瞭然で迷うことがありません。最初は水路単独の狭い路地で、後半は幅広の遊歩道風の通りが、ゆるやかに蛇行しながら学田公園まで続きます。中村分水のように、途中の水田への灌漑が主目的ではないため、最短距離で中新井池を目指しており、きわめて分りやすい経路となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 千川通りに面した分水口から始めます。前回UPした→ 写真正面の路地です。 

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    2. このような狭い路地が200mほど続きます。元々水路単独の区間だったのでしょう。 

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    3. 路地を抜けたところです。欅並木の遊歩道になります。

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    4. 「空中写真」を見ると水路は道路右手に沿っていました。 

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    5. 学田公園北交差点を越えます。学田公園まであと百数十メートルです。

中新井村分水

2015-07-06 06:56:10 | 千川用水4

 三本の中新井村の分水は中村分水と同じく、大なり小なり自然の谷筋を利用しています。いずれも中新井川(江古田川)に合流するもので、かっては周辺の湧水を集めた小支流だったことが想像できます。なお、「段彩陰影図」中「☓」印は文献上の分水ではありませんが、水車用水の余水を分水として利用したもので、同様に支谷筋を利用しているのが分かります。結局これらの分水利用により、中新井村の水田面積、米の収穫高は、正保年間(1645~48年)に田79石余、10石を1町として8町ほどが、明治初めの「東京府志料」では水田面積17町5反、米の収穫高185石と、倍以上に増加しています。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 中新井」(1/18000)  オレンジ線は練馬、中野の区境ですが、江戸時代は中村、中新井村と上鷺宮村、江古田村の村境です。

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    ・ 上新街口  グリーンベルト上からのショットで、この路地が右手中村、左手中新井村の村境だったところで、現在の住居表示では、右手中村、左手豊玉となっています。

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    ・ 下新街口  同じくグリーンベルト上からのショットで、奥が桜台駅前交差点、次いで二つの建物に挟まれた奥行き50mほどの路地が分水の痕跡です。

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    ・ 北新井口  高架の環七通りをくぐり、数十メートル東にいったところから、グリーンベルト越しに武蔵大学キャンパスの体育館のある一角を写しています。

中新井村

2015-07-04 06:30:35 | 千川用水4

 目白通りと交差する豊玉北6丁目交差点手前で、グリーンベルトはいったん途切れます。その途切れるあたりが、中村と中新井村を分かつ境でした。そして、村境に沿って中新井村分水が南に分岐していました。なお、中新井の表記は明治以降のことで、後北条氏が一門、家臣の役高を記した「小田原衆所領役帳」では「中新居」、また「新編武蔵風土記稿」では「中荒井」となっています。練馬区のホームページ内「練馬の地名今むかし」は、「小田原衆所領役帳」の「中新居」から、隣村中村の人々が新たに開拓し、居住した地域の意と推測しています。なお、中新井地区は現在の住居表示では豊玉ですが、これは明治9年(1876年)開校の、学田公園ともかかわる小学校の学区が、当時の北豊島郡と東多摩郡にまたがり、豊玉小学校と名づけられたのがきっかけです。

 

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    ・ 千川通り  中村、中新井村境から豊玉北6丁目交差点を写しています。右手にチラッと見えている手すりが、中新井分水(上新街)の分水口跡の路地に設けられているものです。

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    ・ 氷川神社、 中新井村の鎮守である氷川神社は、中新井川(江古田川)を左岸から望む段丘上にあります。その周辺が本村なので、最初に移住、開発されたところなのでしょう。

 <三本の中新井村分水>  中新井村の分水は三本あることが知られていますが、すべてが揃うのは明治に入ってからで、江戸時代の文献に登場するものが、その三つのうちのどれに対応するかは、個別の検討が必要なところです。以下は明治10年「星野家文書」をベースに、江戸期の文献、絵図に登場する各分水を割り振ってみました。

 

享保頃 安永9年 寛政6年 元治元年 明治10年
竹戸樋 中村中荒井境 5×5.5 6×6 上新街 4×4       
  竹樋 下新街 1.5×1.5
分水口竹 北新井 2×2      
* 寸法は縦×横で単位は寸(≒3cm)です。

 

 うち安永9年(1780年)の「千川素堀筋普請所積見分」(「小川家文書」)、及び元治元年(1864年)の「千川分水口取調絵図」(「芦川家文書」)は、下練馬村分水より上流にあれば下新街に、すぐ下流なら北新井に割り振っていますが、厳密な意味で同一かどうかは不明です。また、享保7年(1722年)の上水廃止以前の様子と思われる「千川上水給水区域」(「千川家文書」)や寛政6年(1794年)の「星野家文書」に関しては、おそらくメインの上新街のものに割り振るべきなのでしょうが、そう断定するだけの根拠に乏しくあえて保留にしておきました。(特に享保頃の「竹戸樋」に関しては、当時まだ中新井池は湧水があり、助水を必要としていなかったかもしれないこと、また竹樋であることを考慮すれば、別の可能性も捨てきれません。)

 

 


中村分水4

2015-07-03 07:48:21 | 千川用水4

 中村分水の最後です。南蔵院南で右折してから学田公園まで、200m弱がカラーブロックの遊歩道となっています。ところで、東京近郊の農業用水は、昭和の初めに区画整理が行われ、宅地化に伴い生活排水路に転換します。そして、第二次大戦を経て、環境悪化が問題となり、東京オリンピック、高度経済成長期に暗渠化されるのが一般です。中村分水もその例外ではなく、昭和14年(1939年)に区画整理が開始された翌年、武蔵高校の生徒が訪問した際には、「埋められた舊分水路に沿って下水が設けられ、道路が通じ急速に宅地化しつゝあり」ました。暗渠化については文献上は未確認ですが、「空中写真」を追ってみると、昭和38年(1963年)では、開渠の上にスリット状の蓋が設けられ、同50年には現在と同じ幅広の道路になっていて、昭和40年代に暗渠となったものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 最後の右折で東に向かいます。ここから学田公園前まで、カラーブロックの遊歩道が続きます。 

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    2. 南蔵院通りを横切ります。左手に100mほどで南蔵院門前に出るところです。 

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    3. 延文3年(1357年)、良弁僧都が中興したと伝えられる古刹、南蔵院です。境内の→ 「区画整地碑」については一度触れました。

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    4. カラーブロックの遊歩道に戻り、あとツーブロックで学田公園です。 

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    5. 学田公園まで来ました。ここで左手からの中新井分水と合流、中新井川(江古田川)となって右手に向かっていました。

中村分水3

2015-07-02 06:40:52 | 千川用水4

 中村分水の続きです。→ 「東京近傍図」で、南下した分水がUターンして南蔵院の南に向かう様子が描かれていますが、区画整理後は左折して東に向かい、300mで再び左折という、直線的な流路に変更されました。また。複数あった水路も一本にまとめられましたが、Uターンの左下で突き出した個所に、ワンブロックだけの車止め付き路地があります。名残の水路跡と思われますが、本線とどうつながっていたのか不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左折して東に向きを変えます。左折後も幅広歩道が左手に連続しています。 

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    2. ワンブロックだけの車止め付きの路地です。奥には稲荷神社が祀られていますが、由緒などは不明です。 

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    3. 300mほどあるUターンの底の部分です。かっては中村田圃の中心だったところです。

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    4. ここで左折して北上、南蔵院に向かいます。 

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    5. 今は拡幅されていますが、元は水路単独だったところなので、これまでの幅広感はありません。

中村分水2

2015-07-01 08:04:38 | 千川用水4

 中村分水の二回目で、大山不動の傍らを抜け、右折して南下しているところの続です。その後、二百数十メートルで左折した後は、数十メートル間隔で右折、左折を繰りかえします。これは→ 「東京近傍図」で、南下しながら左カーブで徐々に向きを東に転じているところを付替えたもので、区画整理事業で流路を変更する際、よく見られるパターンです。中村地区の区画整理事業は、昭和12年(1937年)に認可を受け、同14年に着工、完了したのは第二次大戦をはさんで昭和27年でした。南蔵院境内の区画整地碑裏面の数字では、この時総面積25万4千坪余の土地が区画整理されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 二百数十メートルに及ぶ直線コースの中程からのショットです。この区間の水路は道路の右手に沿っていました。

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    2. ここで左折します。左手に見える幅広の歩道が水路跡です。 

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    3. 左手の幅広歩道が途切れ、かわって右手に狭い路地が顔をのぞかせています。ここで水路が右折したのが分かります。

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    4. ワンブロックで左折します。再び左手に幅広歩道が出現します。奥に見えるフェンスは中村小学校のものです。

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    5. 中村小キャンパスの南西角で右折です。右折後も幅広歩道が左手に連続します。

中村分水

2015-06-30 06:38:32 | 千川用水4

 前回UPの→ 「東京近傍図」で、現中杉通りの東にあって南下、東に向きを変えているのが中村分水で、今でも道路沿いの幅広の歩道など、その痕跡をたどることができます。「近傍図」にも描かれていますが、中村の水田は南蔵院南の流域に集中しており、その面積は江戸期で7町歩余、明治に入り10町歩前後。分水はその水田地帯を抜けた後、中新井村境先の沼地に注ぎますが、ここが妙正寺川の支流である中新井川(江古田川)の水源で、中新井池とも呼ばれていました。「近傍図」に薄緑で重ねたのが、その跡地にある学田公園です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. グリーンベルト上に祀られた中村不動横からのショットで、正面の道路が暗渠後の分水路を含んでいます。 

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    2. 中村不動前の道路を南下します。分水は通りの左手を並行していました。

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    3. 左手の中村公園を過ぎたところで左カーブ、東に向きを転じます。 

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    4. 左手の茂みには大山不動と稲荷が祀られていて、かっての中村分水はその間を流れていたようです。

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    5. 大山不動先で右折、再び南下します。「近傍図」とは異なる直線的な流路は、昭和10年代の区画整理の結果です。

中村

2015-06-29 06:53:59 | 千川用水4

 九頭龍弁天から先、千川上水の流域は旧中村に属していました。「新編武蔵風土記稿」は中村について、「古は多磨郡に属し中鷺宮村と唱へ同郡上下鷺宮村と並たりしか、後いつの頃か下略して今の名となり當郡(豊島郡)に入しと…」と、伝承を紹介しつつ、上下鷺宮の中央にはないので伝承は誤りだろうとしています。確かに上鷺宮とは東西、下鷺宮とは南北の位置関係で、真中でないといえばそうなのですが、「今川氏と観泉寺」(昭和49年  観泉寺史編纂刊行委員会編)の記述によると、中村には「上鷺宮村の飛び地が八ヵ所、下鷺宮村の飛び地が四ヵ所と入り組んでいた」とあります。同じ高家今川氏の知行地であり、お互いに飛び地が入り組む緊密な関係を考えると、「中鷺宮」説も捨て切れないように思えます。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部に加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は練馬と中野の区境で、元の中村、上鷺宮の村境です。

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    ・ 千川通り  中村橋駅前の歩道橋から下流方向のショットです。交差しているのは阿佐ヶ谷駅から鷺ノ宮駅を経由してここまで来た中杉通り、左手に駅名ともなった中村橋が架かっていました。

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    ・ 中村橋跡  武蔵野鉄道武蔵野線(現西武池袋線)の開通は大正4年(1915年)、練馬駅の次は石神井駅でした。大正13年に練馬駅の隣に新設された駅名として、駅前にあった中村橋の名前が付けられました。

 <中村分水>  中村橋から200mほど下流に中村分水口があります。おそらく千川用水開設当初からのもので、「東京市史稿上水編」の「千川上水給水区域」にも、「一、中村水口内法三寸四方 此水口より上鷺宮村に相懸り申候」と記載されています。樋口の大きさは、寛政6年の→ 「星野家文書」で「中村田養水口四寸四方也」となった後は、明治期に至るまで一貫して4寸四方前後で推移しています。このように、中村分水が上鷺宮村に懸かっていた時期があり、逆に七ヶ村分水の場合は、上鷺宮経由で中村まで達していたと考えられるなど、両村の緊密な関係は上水利用の面にも表れています。