私が娘時代の頃の事です。
母に勧められ、あるいは自分で興味を抱き、始めた習い事に、下記のようなものがあります。
茶道(表千家)、華道(小笠原流)、お習字、日本舞踊(花柳流)、洋裁、料理等。
そういえば就学前から、小学生の低学年の間、絵画教室にも週一回通っていました。
その頃、妹はバレーのレッスンに励み、そのバレー団の子供のプリマドンナ的存在として活躍していました。
母の話では、私は体が弱かったので、お絵描きの教室が向いていると感じたようです。
私の絵画教室の先生のお名前は、今でも覚えています。
下村先生。
細身で背が高く、優しい雰囲気の方でした。
家から、かなり遠く離れたところにお教室があったため、いつも母が付き添ってくれたものです。
もしかすると、母は、その子の興味の対象と、潜在的な才能を見抜く能力にたけた人だったのかもしれません。
妹同様、私の才能が、短期間でしたが花開いた時期がありました。
朝日新聞主催の全国コンクールに入賞したり、学校の宿題となった夏休み帳のドリルの裏表紙に、私の絵が載ったりしました。
図工の先生が、私に一目置いていらっしゃる、との意識もありました。
二名だけ図工室に呼ばれ、放課後、絵を描かされたりしたこともあります。
でも数年間ほど習ったのみで、その絵画教室に通うのを止めてしまった私です。
母に連れられ、デパートで催された印象派の絵画展を鑑賞後、帰宅するとすぐ、絵筆を握って絵を描きだすような子供でしたのに。
続けていれば、私の人生のどこかで、その才能が花開いたかも知れませんね~
なぁ~んて、私の勝手な想像です。
孫のR君とK君は、お絵描きが大好きで、才能も感じられます。
もしや、私の遺伝かなあ~なんて、またまた。(笑)
今春、わが家の庭に咲いたバラのアイスバーク
絵画と同じくらい、多少長く続いたお稽古事に、茶道があります。
中学生時代、ご近所のお宅で習いました。
わが家から数軒先のお宅で、広いお庭の隅に本格的なお茶室がありました。
私は若いというだけの理由で、年明けの初釜の日に、お点前をするように仰せつかった事があります。
周りはみんな年配の貫禄あるおばさまたち。
緊張のあまり、柄杓を持つ手が小刻みに震え、炭火で熱くなった鉄の茶釜に、掬ったお湯が滴ってしまいました。
確か、お茶室のお湯が煮えたぎる音を、「松風の音」と言いませんでしたかしら?
風雅なたとえですね~。
ところが私は、そのお茶室の静謐さに水を差すような音を、そのせいで立ててしまいました。
恥ずかしさから、ますます緊張して、お点前を続けたものです。
母の遺品のお茶道具
和室には、炉が切られていました。
わが家から近かったのは、茶道の先生のお宅のみならず、華道の先生も同様です。
何とお隣でした。
お庭は、手入れが行き届いた実に立派な日本庭園。
起伏があり、鯉が泳ぐ池には石橋までかかっていました
それを臨む広いお縁側で、お稽古を受けました。
権威ある有名な先生でいらしたようで、とても活躍しておいででした。
今なら、いくら出好きでない私でも、地理的な利便性がこんなに良ければ、熱心に通って、自分のものにしたでしょうに。
臆手で精神的に幼かった私には、そんな意欲がなかったのでしょう。
何をお稽古しても長く続けられなかった私。
それにもかかわらず、お月謝を払い続けてくれた両親のことを思うと、改めて感謝の気持ちが湧いてきます。
妹は(ブログ名 ただ一つだけの姥花日記)、私と違い、茶道はお免状を頂いているはずです。
バレーも、そのバレー団の子役として大活躍しました。
森下洋子さんとは、一時、そのバレー団で、一緒にレッスンを受けたことがある妹です。
私とは大違いですね~。
ドリームラベンダー
他で思い出深いのは、日本舞踊。
郷里では母のお師匠さんからご指導を受けました。
父の転勤先でも、お稽古に週一回通いました
お稽古用の浴衣を着て、扇子を手にすると、おのずから背筋が伸びて、心が凛としたものです。
夫とお付き合いを始めた頃も、まだ続けていました。
辞めてからも扇子は、長い間、身近において大切にしていたのですが、その内に見当たらなくなってしまいました。
同じお稽古場でお習字も習っていました。
花嫁修業として、お料理学校にも、もちろん通いましたが・・・・・・。
けれど結局、何一つ、ものにできなくて・・・・・・。
お月謝を無駄払いさせてしまった両親に申し訳ない気持ちがします。
けれど、短期間でもいろいろなことを体験できた私は、本当に恵まれていました。
きっとわずかでも、その経験が、私の心の糧となり、成長の助けになってくれたに違いない、と思うこの頃です。
ご覧下さいまして有難うございました。
花のように泉のように