お稽古。
何となく古風な響きがし、奥床しさが感じられる言葉ですね~。
ブログを拝読していますと、いろんなお稽古に励まれた方の記事を目にすることがあります。
私はそれだけで、その方に一目置いて、あこがれの眼差しさえ抱いてしまいます。
何故なら、私も娘時代、母に導かれ、或は自発的に、随分いろいろなお稽古に手を付けました。
でも長くて、続いて2~3年。
その道を究めるほどに至ったことは、一つとしてありません。
何か一つくらい免許皆伝のものがあれば、ブログ記事で話題にでき、私の格をチョッピリ上げることができたかもしれませんのに。
格を上げるという言い方は語弊があり、抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。
けれど、お稽古の表現がふさわしいものと言えば、日本古来から伝わる習い事が多いですものね~。
一概に日本的なものばかり、とは言えないかもしれませんけれど。
西洋・東洋の伝統を偲ぶような習い事もありますから。
鎌倉へ一人旅した時に撮った長谷寺のアジサイです。
私が常に愛読している書物に、次のような記事が載っています。
「稽古」の「稽」は「考える」と言う意味です。ですから「稽古」は昔の物事を考える、古書を読んで学問をする、ということになるわけです。この意味が、時代の移り変わりとともに広く使われるようになり、「学習すること」や「練習すること」も稽古といわれるようになった。でもね、「練習する」といっても、「バスケットボールの稽古」とか「スキーの稽古』とはいわないでしょう。やはり「生け花」「茶の湯」「書道」「琴」などの場合に「稽古」を使う。何故か。これらの伝統技芸には、古くから伝えられた型があって、その型から入ってゆくからです。だから「練習」ではなくて稽古なのです。
中略
古くから伝えられた「型」は生きている。生き続けてきた、と言えるのです。今日の型になるまではに、余分なことは削られ、必要なことは付け加えられてきた。つまり、「定型」と言うのは実は無いのであって、型は常に生成発展をしている、いわば歴史上の生き物なのです。
これを読んで、私も古来から伝授され、生成発展してきたような奥の深い習い事を一つくらい極めるべきであったと。
今更反省しても、もう遅い。
いえいえ、スポーツのように体力を余り要しないので、これからお稽古に励んでもいいのかもしれない。
けれど、私はまたきっと、三日坊主とはならなくても、そのうち辞めてしまいそう。
マイペース人間ゆえ、日が決められ、週に一回でも必ず拘束されてしまう事を好まない性格です。
習い事は向いていないのかもしれません。
自分にはそういった情けない面があるので、一つの事を極める人に、私は頭が下がります。
芯がスッと通り、ぶれない凛とした人を心に描いてしまうのは私だけでしょうか。
茶道でも、華道でも、日本舞踊でも、師匠となられるような方々は、皆さんそのような雰囲気をたたえておられませんか。
私にはその様に思えてなりません。
そういえば、身近に、伝統的なお稽古ごとに励み、一つ一つものにした人がいました。
私の母です。
お琴、茶道、華道、お習字、日本舞踊、短歌等。
お琴のお稽古に励む母の姿を見たことはありませんでしたが、八畳の和室の床の間には、長い間、お琴が立てかけてありました。
娘時代に精進した和楽器のようで、想い出のアルバムにその姿が見られます。
その他のお稽古事にも励む母の暮らし方が、私の胸に印象深く焼き付いています。
母は、努力のみでなく、天性の器用さに恵まれた人でした。
上に挙げたようなお稽古事は、ことごとく自分のものとして、マスターの域に到達していました。
お習字や短歌は入選作品もあり、母が嬉しそうに私に、よく報告してくれたものです。
日本舞踊もかなり上達し、花柳流のお師匠様と発表会の舞台で連獅子を舞った時の母の姿が忘れられません。
このように何事にも一生懸命臨み、途中でいい加減な挫折を良しとしなかった母。
それゆえ、如何なる時でも姿勢を崩さない凛とした人で、振る舞いも美しい人でした。
恐らく、日本古来から伝わるお稽古ごとに精を出したことにより、自然に身についた所作だったのでしょう。
他に、お料理、編み物なども得意とした母です。
母に比べ、私の習い事、お稽古ごとの何と浅く、いい加減なものであったことか。
もっとひとつひとつ努力を重ねていれば、それが私の人格を多少でも薫り高いものにしてくれたでしょうに。
今更、後悔しても始まりませんが、束の間の期間でも体験できた事を喜ぶことにしましょう。
何か目に見えない形で、私の成長の糧になっていると思うからです。
明日は、私がこれまで習ってきたお稽古事や習い事について、お話させていただきますね。
ご覧下さいまして有難うございました。
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花のように泉のように