美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

厭人的古本病者にとって書物は形を現じた魂としてその前にひれ伏すものだから、博覧などいう瀆聖の言句は冗談でも口にしない(内田魯庵)

2023年10月01日 | 瓶詰の古本

 読書家と蒐書家とは違つてる。読書家必ずしも蒐書家でなければ蒐書家亦必ずしも読書家では無い。が、此の二者は隣人同士で決して見ず知らずでは無いのだが、読書家の蒐書家を見る、恰もパリサイ人の如く、動もすれば「積んどく先生」と称して軽侮する。が、書籍の保全されるのは「積んどく先生」あるが為めで、善書を読書家に供給するは「積んどく先生」である。「つんどく」は決して恥づるに及ばないので、鼠が物を齧るやうに行き当りバツタリに喰ひ散らす乱読や、醉漢が千鳥足を踏むやうにシドロモドロに混迷脱落する錯読や、何でも彼でも鵜呑にして少しも消化しない盲読や、然ういふ無用の或は脱線した読書よりは「つんどく」が却て文献保存の重大な任務を盡してゐる。
 且書籍は本来読む為めに作られたものであるが、古い時代を閲したものは歴史的記念物であり、特殊の装飾を施したものは芸術的鑑賞物でもある。書籍は年報、報告、法典、機械書、測量書等を除いては単なる功利一遍のものでは無い。又書籍に由つては読み棄てにする消耗品類似のものもあるが、然ういふ類を除いては書籍は内容以外にも愛翫すべき鑑賞すべきものである。読んで了つたあとが小豆の餡の搾り滓となるやうなものではない。自然読書家は蒐書家で無くとも自づから書架を富まし、蒐書家は読書家で無くとも亦自づから博覧となる。
 所謂ビブリォファイル即ち愛書家は読書家とも蒐書家とも違つてる。愛書家は必ずしも書籍の熟読者でも無ければ万巻の書を儲へようとするものでも無い。内容が左して面白くないものでも或は思想的に相容れないものでも稀覯や伝来や装幀や種々の点から愛撫するが、必ずしも愛慾の手を伸ばさうとしないで僅に二三冊に過ぎないものを限りなく熱愛する。之が段々と成長して読書家となり蒐書家となる場合もあるが、愛書家は必ずしも読書家や蒐書家では無い。

(『東西愛書趣味の比較』 内田魯庵)

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