晩年になつて、慶次郎は江戸へ出た。徳川が好きでない慶次郎は、江戸の人間も好かなかつた泰平慣れのしたらしい物腰、猪口才なとりなしが、小癪にさはつてゐたらしい。
その頃、銭湯が江戸に出来はじめた、慶次郎はその湯へひよこひよことはひつて行つた。
素裸になつて長い手拭をさげた慶次郎は、片手に短剣を鞘ぐるみぶらさげた。丁度そこに居合はしたのは三四人の武士であつた。
「あの入道は刃をもつてゐるぞ」
「乱心者ぢやな、湯はやめようか」
「いやそれはいかぬ、多寡が老衰の入道に恐れてやめては恥ぢや」
「といつて、どうするのぢや」
「我々も用意して入湯すればよい」
「成程、いゝ事に心づいた」
これから入湯する武士は、短剣を手拭の下に隠してはひつたが、既に湯にひたつてゐたものは仰天した。
「見知らぬ老人ぢや、どうやら乱心と見える、恩怨もないのに斬りつけられては迷惑千万、それに赤裸のまゝ手傷とでもならうなれば、世上の聞えも恥しい、主の名をも汚す訳ぢや、というて急ぎあがつては臆するに似たり、さればというて、此の儘では」
愚図々々してゐたが遂に湯から出て、ひそかに短剣を抜いて持ち、湯の中へ戻つてきた者さへあつた。
白昼の事ではあり、浴場に装飾がまだ施されぬ頃とて、日の光りは十二分にさしてゐた、ぽかぽか湯に暖められて、よい気もちになつた慶次郎は、荒木板の流しに両足をなげ出して、大欠伸をした、それが又入浴中の外の者をして、いよいよ彼奴気が変だわいと思はせた。
慶次郎はそれ等の者に眼もくれなかつた、短剣を抜いた、刃の光りが湯気の中でキラリと光つた。眼をつけて放さず気を付て油断せぬ人々は、成行如何と息をのみ、敢へて近づかない。
入道は極無造作に左の腕をぐいと伸し、右手に刃を持つて皮肉の上をぐいぐいとこすりはじめた。
「あツ」
いづれもは呆れ返つた、刃ではない、竹箆に刃色に似た銀紙をまいたもの、所謂竹光であつた、伊勢平氏の昔物語を、実地にやつた慶次郎のいたづらであつた。
この手で脅かされた武士が、江戸には沢山あつた。有名になつた頃には最う姿を湯屋に見せもしなかつた。
(『ひよつと齋』 長谷川伸)