僕は全く女の髪の捕虜となり、全くそれに取つ附かれてしまつたのだ。それで、今愉快にしてるかと思ふと、直ぐともう煩悶してゐた。この猫の目のやうな感情の動揺は、女を我物にする迄の恋慕のどよめきとちつとも変らない。
かくして僕は人なき室に閉籠つて、女の髪に燃ゆる如き愛情を注ぎ、果ては顔に捲附けて、黄金の波に眼を埋めるのであつた。
恋だ、恋だ、全く恋だ。僕は唯の一時もそれを見ずには生きてゐられない。そして僕は女を待つて待つて待ち焦れた。
ある夜の事、なんだか誰か室にゐるやうに思はれて眼が醒めた。けれども素より誰もゐる筈もなく、僕は依然たる独りぽつちだ。するともうどうしても眠附かれない。僕は不眠症に冒されてゐるのだ。それから例のむつくと起上ると女の髪を取出した。と、其夜は日頃に増して膚ざはりよく、また美味(うま)く遥かに生々してゐた。そして飽かず飽かずそれを愛撫するうちに、全く生きたる恋人に対する心地して、心は強く強く刺撃せられ、果ては殆ど堪へ難い感情の興奮を覚えるのであつた。
と、見る見る女は現れた!あゝ死んだ女が復活(よみがへ)つたのだ。まさしく僕は女を見た。まさしく僕は女の手を取つた。女はすらりと高い実感的の妖女であつた。そして肉附ふつくりと滑らかに、腰は七絃琴(ライヤー)の形ちをしてゐたが、その胸は流石に冷たかつた。
(「女の髪」 モーパツサン原作 三宅松郎譯)