美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

おのれの賢愚ははかり難い

2018年03月22日 | 瓶詰の古本

   人は誰しも、物事を客観的に見る生得能力に恵まれていないので、おのれの賢愚を正しくはかることはでき難く、犯した誤りを糧にして斟酌することは稀である。斟酌することがなければ、自分の賢を誇ることはできるが、他人の痛み、哀しみを思いやることはほとんどできない。だから、賢を誇って他人を見下す愚か者を咎めるのであれば、まず省みて自分自身を咎めるべきである。
   しかし、それも程度によりけりであって、ひょっとしたら私は賢くないのではないか、案外馬鹿なのではないかと、一度たりとも自問自答したことがないと疑われる人物が、人前で声を張っているのを目の当たりにすると、なんと恥ずかしいざまかと驚き呆れてしまう。こうした人物の形振りを見て恥ずかしいと感じるのは、さすがに我々下流の愚か者には、日々の悶着や躓きによって一片の自己認識力が生まれ、若干の省察力が残されるからかも知れない。
   それにひきかえ、自分の愚かしさに気づかない(かのような)まま地歩を得て、ありもしない(幻の)賢を売るほどの人物は、それを気の毒がる我々愚か者の愚かしさを益々見下して行くことだろう。

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