細川右京大夫政元は、源の義高公を取立て、征夷将軍に拝任せしめ奉り、自ら権を執り其の威を逞しくす。或日大いに酒に醉うて、家に帰り臥したりしに、物音をかしげに聞えて睡りを覚し、頭を擡げて見れば、枕元に立てたる屏風に古き絵あり、誰人の筆とも知れず、美しき女房少年多く遊ぶ所を極彩色にしたるなり。其の女房も少年も屏風を離れて立ち並び、身の丈五寸計りなるが、足を踏み手を拍ちて歌唄ひ、面白く躍を致す、政元つくづくその歌を聞けば、さゝやかなる声にて、
世の中に、恨みは残る有明の、月に叢雲春の暮、花に嵐は物憂きに、洗ひばしすな玉水に、映る影さへ消えて行く
と繰り返し繰り返し歌うて躍りけるを、政元声高く叱りて、「曲者共の所為かな。」と云はれて、はらはらと屏風に登りて元の絵となれり。怪しき事限りなし。陰陽師康方を喚びて卜(うらな)はせければ、「屏風の絵にある女の風流の躍に、花に風と歌ふ、すべて風の字慎みあり、旁(かたがた)以て重きつゝしみなり。」と云ふ。永正四年六月の事なり。其の次の日政元、精進潔斎して愛宕山に参籠し、偏に武運の長久を、勝軍地蔵に祈り申されたり。二十三日の下向道に乗りたる馬、已に坂口にして斃れたり。明くれば二十四日我が家に於て風呂に入りけるに、其の家人右筆せし者敵に内通して、俄に突き入りつゝ政元を刺し殺したり。康方が風の字慎み有りと云ひしが、果して風呂に入りて殺されしも、兆(うらかた)の取りどころ其の故あるにや。
(「伽婢子」 松雲処士)