美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

言葉によって心は生まれ変ったり激しく揺れ動かされたりするものだから、そうなる運命にある文学者として言葉を鍛え抜いた人(幸田露伴)

2024年07月27日 | 瓶詰の古本

 愛は古人が恵なりと解いてゐる、又憐なりとも解いてゐる。少しでも他の幸福を増してやりたいといふのが恵即ち愛であり、又相並んで彼此同じく幸福ならんとするのが憐即ち愛である。いづれも人の心のやさしい、和やかな、美はしい働である。子産を孔子は恵人と云ひ、古の遺愛なりと云つて居らるゝ。愛・恵のかゝはりを知るに足る。古い諺に、生相憐み、死相損(あひす)つ、といふのがある。生きてゐる同士、人間の離れがたなの情、即ち愛憐のすがたを語つてゐるのである。
 恵むは「めぐし」とすること、めぐしは愛らしいとすることだ。東北の方言で「めんこ童衆」などいふ「めんこ」は疑ひも無く「めぐし」の転で、邦語にも恵と愛との一にして二ならざるを思はしめる。しかも亦「めぐし」は「むごし」と同じで、「人も無き古りにし里にある人をめぐしや君が恋に死なせむ」のめぐしは「惨し」であり、惨しは「目苦し」であり、「あはれや」である。「愛する」「愛らし」などゝ「めぐし」「惨し」などいふ語と相通ずると云はゞ、人は僻説強弁とも云ふべきか知らないが、愛の極まるときは、心きはまり逼(せま)りて正目(まさめ)に見て居るにも堪へぬやうになるものである。そこが「惨」であり、「目ぐし」であり、何のふしぎもないことである。愛を「かなし」といひ、「いとほしい兒」を「悲し兒」といふ類も、愛らしくて愛らしくて堪まらぬものを見るときは、心狭まりて涙さへ催さるゝやうになる、そこを「悲し」とは云ふこと誰も知つたことである。
 大慈大悲といひ、悲願悲心などいふ「悲」は、皆「慈」の強くて堪(たま)りかぬるところを云ふのである。慈の「いつくしむ」と悲の「かなしむ」とは、一応は異なれども、深く立入り考ふれば、同じところがあるのである。「あはれ」といふのも、至極の美はしくも好もしきものに臨みて、「哀れ」といふべくは無きやうなれど、感歎の極には涙さへ浮ぶに至るところがある。そこを「あはれ」といふのである。餓ゑて死せんとする如き人に臨みて、あはれむのと、吾が愛する妻子を憐れむのと、同じく「あはれ」と云うたのでは、釣合はぬやうだが、よくよく観ると、心の奥のすがたには同じところがあるのである。皆是れ愛である。
 恵も、めぐむも、めぐしも、惨しも、憐も、いとほしも、かなしも、悲も、あはれも、慈も、いつくしむも、あはれむも、皆是れ愛である。そして愛は「うつくしむ」であり、「うつくし」であり、「美」なのである。我邦の言葉は斯様(かやう)に愛を語つてゐる。人の此心の働きのさまざまの中で、愛が最も優美で霊妙で幽遠なものであることは言ふまでもない。

(『愛』 幸田露伴)

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