美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百五十二)

2018年08月01日 | 偽書物の話

 偽書物の頁を埋める文字は解読の尻尾すら掴ませず、いくら眦を決して向き合ってもその意趣がこちらの心頭へ届くことはない。しかし、行をなす文字と関わりがあるのかないのか知らぬまま、文字とは別立ての案内によって水鶏氏は別世界に踏みどころを得た。その別世界は、水鶏氏が幾度となく繰り返した通り、脳髄の表裏を随意気ままに蚕食する夢想の吐く色糸羅綾ではなく、実在する複層へ更に複層を伸張する現世界の動態である。偽書物の舞台で演じられる顔相の変移劇を脳中の幻想と診断され、挙句は、現世界ですら幻想の戯れであると言いがかりをつけられたら、別世界を散りばめた現世界の実在の根基である水鶏氏の自心は、パラドックスの密林で無矛盾の小枝を求めあぐね無念のうちに窮死する途方へ突き進むかも知れない。
 黒い本を携えて水鶏氏が夕刻に見聞きした別世界は、自心を実感した瞬間に撃たれた実在性、原始星に連なる実在性の煌めく世界であっただろう。煌めきの輻射を受けて蠢動する私の自心もまた、表に現われた怪異の兆候に怯え、首を竦めて幻覚をやり過ごす誤った弱気に陥っていられない。自他を扱き雑ぜた幻想の掛け合いに縋って快刀乱麻の帰結を願うなら、自心の実在性は幻想の流砂へ呑まれて沈み、現世界と渡り合う機会は永劫見失われてしまう。偽書物の付け目はそこにあると疑訝に噛まれること自体、疾くに幻想の流砂に足先を舐られている徴憑と言えなくもない。

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