人間の社会はそれ自身が既に世界性を有つてゐなければならない。此故にそれがヘーゲルなどの云ふ如く国家として道徳的実体といふ性質を帯びて来るのである。かゝる意味に於ては、我々は国家的となることによつて具体的人格となると云ふことができる。我々は絶対矛盾の自己同一の世界の個物として歴史的種的形成的即ち社会的形成的でなければならない。我々は国家を通すことによつて具体的人格となる。而してそれは同時に社会が世界となると云ふことでなければならない。特殊にして一般なるものが国家である。そこに国家が宗教的に権威的なると共に科学的に実在的ならざるべからざる所以のものがあるのである。民族が自己自身に世界を宿すことによつて真の国家となり、個人は種的形成的に世界を映すことによつて具体的人格となるのである。かゝる意味に於て国家が具体的理性であるのである。上にも云つた如くギリシヤに於ては社会が即世界でもあつた。ギリシヤのポリスは尚近世国家の意義に於ての国家と称すべきものではなからう。近世の法律的・道徳的国家はローマ法とキリスト教の世界主義を通じて生れて来たものと考へる。併しそれはそれに於てイデヤを見るものでなければならない、歴史的身体的でなければならない。然らざれば、それは抽象的形式的たるを免れない、具体的理性的ではない。具体的理性的といふことは、多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと云ふことである。それは何処までも世界を媒介とすることによつて制作的といふことでなければならない。私は世界が具体的に制作的となる時、民族といふものが歴史の舞台の上に現れ来なくてはならないと思ふ。多と一との矛盾的自己同一として世界は制作的なのである。種と種とは何処までも結び附かないものでなければならない。種は各自世界とならうとする。そこに種の種たる所以のものがあるのである。種の世界は闘争の世界である。唯それは制作を通じて結合し行くのである。今日我々は経済的には既に制作的に一つの世界である。その為めに却つて闘争的ならざるを得ないのである。我々は制作を通して客観的にイデヤを見ることによつて、一の世界とならなければならない。文化の創造に於て世界は一とならなければならない。イデヤを見ると云ふことは、無差別的に一となることではない。
(『歴史的世界に於ての個物の立場』 西田幾多郎)