「いいよ、いいよ。そんなことをくどくどと考えるのは、ちっとも可笑しなことじゃない。健全な体が考えることとして、烏滸の沙汰とは言うまい。ところで、降って来るって、どこから何が降って来るんだね。まさかとは思うが、例えば、恥ずかしながら誰ぞへの天職の告知とかだったりして。
金や女のしくじりで本当に進退谷まったっつうことで、人から隠れた陋巷に逃げ込むなんていうのは、話の上でだけだろうが、なかなか夢見心地のスリルな感じだわさ。そんな味のある泥濘、おれも一度ははまってみたいもんだ。それだったら、迷うも迷わないもないもん。
なあ、思い込み次第では女と天職は同じ言葉なのかも知れないぜ。そいつのためにそれまでの自分を全部放擲できるものって考えると、ほかには思いつかないよ。もちろん双方とも、おれにとって毫も縁がないってことのみならずな。」
須川は厚手の本を片手に持ったまま、帳場にやって来ると茶碗を持ち上げた。手にしている本の背には茶紙が貼られ、毛筆で『大正八年 熟語完成英和大辞典』と書かれた辞書の名前が読み取れる。
「懐かしい町というのはあるいはどこかにありそうだが、懐かしい自分てものがあると思いますか、あなたは。」