か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

Dakota この頃僕はよく生きているのでご褒美だ

2017年05月13日 | ブランド

といっても、僕が僕にあげるのだからあまり高いのは余裕がない。

ワニの型押しなんて嫌な気がするが、内部まで金属チャックであること。奇をてらったデザインでないこと。もう最後の財布になるだろうから十分な耐久性があること。

まだまだ条件は多い。カード入れが少ないこと。(どうせ入りきれない)   紙幣を入れるところが深いこと。(ウォンを入れる)   色が浅はかな田舎の屋根みたいな色でないこと。ワシントン条約に抵触しない皮であること。角の折り込み(菊折り)が丁寧であること。(たとえ同じ材料でもこんなところがのぼせ上がった中国人が作ったのとは違う)

と考えていると結局dakotaが残った。財布もバッグもスーツも極めて精選された品ぞろえで僕を魅了する。バラバラ並べて買え買えと急き立てる売り方は僕には合わない。通信販売で安いからと中華財布を買ってその後何十年も不快なまま使うのか。

こういう小さな不愉快が重なって貧乏人は何をするにも気が短くすぐけんか腰になるのだろう。

とてもかわいそうだ。前の財布は三越で買った。象皮だった。その時は合法だったがその後違法になった。すでに所有しているものは持ち続けられるが、これ見よがしに持つのは成り上がりものだ。僕はやめる。

Dakotaは小さいところまで考えつくされている。馬具会社から発展したバッグ屋は大体間違いない。

これはご存知コードバン。馬の両側の尻からとるので一頭から2個しか作れない。世界最高の強度といわれるが、使ってみると柔らかい。さすが7年前とは思えないつやがある。これも佐賀玉屋。

僕は玉屋が好きでたまらない。店員の知識の豊富さ。こちらが話し終わるまでじっと待つゆとり。気に入ったものがない時も気持ちよく送り出してくれる。

その玉屋があまり具合がよさそうではない。行くたびに売り場が狭くなり、人通りが少なくなり人々の表情が暗くなる。

これではいけない。たかが財布屋の一軒や二軒がつぶれようと知ったことではない。問題はそこではなくて、佐賀の文化の中心であり佐賀には他にめぼしいものはないということ。つまり佐賀玉屋以外は砂漠なのだ。

バルーン大会とか言って風船に人が乗って遊んでいるがなくてもいいものだ。

これだけ安く集中的に目の肥えた店員が本物を売る空間は福岡でさえない。

食事も同じだ。内縁の娘には何も買わなかったのでかんかんに怒っていた。しかも何にでも腹を立てたいらしく、カメラで顔が写ったと言っては怒り、食事が遅いと言っては怒っていた。

ざる蕎麦なぞババ臭いものをたのんだ。ぼちぼちとうが立ってきたようだ。僕は芸がないが玉屋定食。でも店の名前が付いたのがなんだかコスパがいい気がして。

さすがポタージュは小麦粉から、タルタルは缶詰じゃなくキッチンで作ったものだ。これが違うんだよな。グルメ雑誌にカネを払って載ってるのはうまくないだろ。食堂も文化だ。うまい店はキッチンが片付いていて狭い。

玉屋の火が消えたとき佐賀県は福岡に吸収される。だって存在理由がないだろ。

 

 


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