か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

おねだり韓国の礎を築いた男 朴正煕

2012年08月30日 | 東洋歴史
大邱平野からまさにカメのしっぽのように細長く平野が伸びている。大日本帝国は朝鮮半島の津々浦々に小学校を立てた。ここ亀尾(クミ)という片隅の平野にも小学校は建てられた。

両側に山が迫り日照時間は長くない。こんなところを耕すのかという猫の額に、人々は、しがみついている。旅行者が訪れるはずもないこの寒村は朝鮮の良き伝統を保っている。旅人(ナグネ)を大事にすると福が来る。今でもみんなが信じている。

亀尾の街中には朝鮮の良さはない。どこにでもある醜悪な駅、朴正煕通り、セマウル通りetc品のない名前だ。喧噪の中で人々にケンカが絶えたことはない。

90年前は物音一つしない田園だったところだ。朴正煕(日本名、高木正雄)が貧しく生まれた。幼少のころから頭脳明晰で、と書きたいがそれは違う。大邱師範学校を70人中69位で卒業する。頭脳が明晰なら師範学校など行くはずがない。彼を書いた本という本が彼の天才ぶりを強調するからへどが出る。大邱師範学校では成績上位者を朝鮮人が占めた。日本人は内地の師範学校にすら通らない大バカが半島の片隅の師範学校に通った。

つまり、低質な日本人の吹きだまりにおいても彼はビリだった。貧乏でバカ学校のビリ。これが彼のコンプレックスのスタートだ。

満州国軍軍官学校に240人中15位入学。突然頭がよくなったようだが、バカは死ぬまでバカで、途中でバカが治ったことは聞いたことがない。満州国軍軍官学校も日米開戦前夜であったため入学難易度が低下した。ただ、帝国陸軍の階級がもらえ無料で通えるのは魅力だった。要するに、低脳がただ飯につられただけだ。

ここで彼はなかなか帝国にとって覚えめでたき行動をとる。彼は学校に日本人(含む朝鮮人)枠拡大の嘆願書を送っている。なかなか良い朝鮮人として軍の目にとまったはずだ。そのころ軍は日中戦争のこう着状態により将校不足に悩んでいて、朝鮮人であっても将校希望者はのどから手が出るほど欲しい存在だった。

中支戦線に限らず太陽の帝国は絶望的な戦をしていた。明治時代にできた銃、大正時代の砲、そのうえ不良品が多く、稚拙な作戦で兵はまったく無駄に死んだ。

陸軍は体格による士官学校の入学基準を緩和した。また、朝鮮人の手を借りずとも大東亜戦争は勝ちぬくと豪語したのもつかの間、ちびで頭の悪い朝鮮人を入学させた。

将校の体格が悪かったら戦は負けだ。知力体力のいずれも欠けてはならない。

太陽の帝国はいずれ沈む。20年後、このちびで頭の悪い朝鮮人に、有償無償、残留資産も合わせて64億ドルも払おうとはだれが想像できただろうか。(日韓基本条約、現在の貨幣価値で70兆円)
Posted at 2012/08/19 23:09:45

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