か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

「震電」にゆめを見るな。

2014年07月25日 | 東洋歴史

 

 

 

 

後ろにエンジンを積んで、まるでジェット機のように進む姿は日本機の中ではユニークだ。駄作だったとか欠陥機だったとかいうのではない。設計製造調達事務、みんな必死に働いた。

必勝の信念?昭和20年になってその信念を持つのは、Fnaticな気違いだけだ。とうの昔に負けは確定し終了のゴングがなりひびいている頃、小日本は恩着せがましく支配地が独立するのを、思い出したように認めた。そんならなぜ最初っから独立を認めなかったか。負けて引き上げるときに捨て台詞のように独立してもいいよとは、現地を最大に馬鹿にする言葉だ。

5万や10万の日本兵が戦後もオランダと戦ったか。それをさして植民地解放の戦いというか。気が狂った言い草で笑いたくはない。

フィリッピンひとつとっても、日本軍は陸海とも現地人の諜報活動に負けた。内地のつもりで傍若無人にふるまうニワカ軍人はゲリラから格好の標的にされた。フク団(フクバラハップ団、親日ゲリラ)は、現在でも命を狙われている。これほど嫌われたのに何が解放の戦いだ。かび臭いことをいうと恥をかく。


話を戻して震電。これを言うと、ひがんでねたんでコンプレックスをもっていじけた人が痙攣を起こして絶叫するので気の毒だ。僕は仮名(かめい)で書いている。それがブログというのだろう。だからここで自慢しようなどさらさらない。じいちゃんが設計者だ。

九州飛行機は工場を300箇所に分散し爆撃の被害の最小化に努めた。海軍技師として徴用されさらに九州飛行機に出向した。他のゼミの仲間はすべて戦死した。

希望は往々にしてだんだん幻の真実に近づく。前脚の開いたスペースにはゴムボートを仕込み、パイロットを救おうとした。ばか。話には出たが設計されたことはない。成層圏から落ちてゴムボートで魚釣りするのか。

ジェット化の計画があり、それが間に合えばB29は軽く打ち落とせた。ばか。エンジンの前にパイロットと武装があるため、現状ですら冷却に成功していたとはいえない。そのうえジェットに換装出来るはずなかろうが。クレヨンとお絵かき帳とあれば分かることだ。現状は弾の出る体当たり機だった。

戦後、朝鮮戦争も終わりKASUGA Baseは撤収されることになった。どうやってこんなにたくさんの荷物を持ち帰るのかと思ったら全部置いて帰った。金持ちの国と戦争をしてはいかん。低脳が負け惜しみばっかり言う。子供の目には先が見えぬほどF86FSABRE(セイバー)が並んでいた。

F86Fから好きなものをとれ、後はスクラップだ。といわれた。子供だった僕にはじいちゃんがとってくれた。メーターパネルを頂いた。翼もはがした。きれいに切って下敷きにした。メーター類はその後、クルマやバイクのメーターになった。それと、Jet Fin。

国家秘密だグダグダグダ、なんていわないこのおおらかさに小日本は負けたのだ。

画像にあるように、ブレード(フィン)根元の切りカキが見えるだろうか。プラグマチズムがここにある。ここにピンをはさみ遠心力で固定するようにしていた。このときは昭和35年ぐらいだが原型は昭和20年に出来上がっていた。即座に1万3千機作る。橘花が10機作れたか。現実を見て殺し合いをしろ。気違いになってわめきあう中からはよい発想はうまれない。

現実を正しく見て効果的な作戦を立てるべきだ。

このフィンは今でも僕の机のよい文鎮だ。ずっしり重い。横にあるのは僕のペンです。比較してください。

グニャグニャ投げたこんにゃくのように共振しながら飛ぶ、寄せ集めの張りぼて震電は、セイバーと戦わなくて本当によかった。じいちゃんは画像のジェットフィンを手にして言った。

「ウワー、負けた。」





  

 


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