特権とは不正であり不公平であり悪である。近代資本主義社会においては、われらはこのような「人の支配」を否定し「法の支配」の下に生きようと決心した。
人を階段に並ばせて、お前が上だ、俺が上だと競わせる社会は、150年前にその非効率さゆえに崩壊した。
以来我々は、何で俺だけだめなのか(例、不合格)、と問うとき、返ってきた理由により不必要に納得したり反発したりする。すなはち、お前が点数を取れなかったからだ、といわれようものならその言葉を聞き終える前に退散する。
しかし、朝鮮人だから、キリスト教徒だから、女だから、労働者だから、だからといわれたら火がついたように反発する。あたかも差別は非道徳であり不条理なことのように激昂する。
人はこのように、自分のコンプレックスに敏感であるにとどまらず、他人が合理性のない理由により一定の利得(例、合格)を得ようものなら、その他人の利得によって自分が大損害をこうむったように憤慨し、そんな特権許さないぞ、と悲鳴を上げる。
僕は在日特権について忘れられたような事柄を書いてきたが、書けばもっともっとある。あるのだが一般の在日が特権の恵沢を享受することはまれだ。もちろん、そういう特権の存在はごく一部であってもそれ自体、悪ではある。
ポイントはここだ。カマキリのように役にも立たない斧を振り上げ遠吠えしても負け犬に過ぎない。自分の怠け心、不寛容、無教養、子々孫々続く下品な生活、・・・これらをしばし忘れようと悪い朝鮮人めがけ自分のコンプレックスをぶつける。
「法の支配」の落ちこぼれたちが、せめてもの弁明に見つけ出したのが在日特権を攻撃することだ。だが、本質はそこではない。ことの本質から目をそらし問題を他人になすり付けるのはいつでもできる。それは簡単なことで努力も要らないが自分の状況も改善されない。
人の不正を暴くようなお遊戯に気を取られていては、一生文句ばかりの人生になる。ひるがえって、自分の状況、環境はどうだ。最悪だろう。そう。環境は常に最悪だ。だからこそ負のスパイラルを、朝鮮人バカだーっ、と叫びながらまっしぐらに落ちるのでは、ただの貧弱なカマキリだ。
貧困の悪循環は哀しい。