か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

心斎橋の悪魔へ

2012年06月17日 | ニュース
    
容疑者磯飛本人が死刑を望んでいるようだが、死刑判決が出るかどうかは予測がつかない。毎日新聞のこういう記事がある。弁護側は当然この筋で押してくるだろう。つまり。

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礒飛容疑者は栃木県那須塩原市などで育った。親族の女性によると、父親が同市内で材木店を営み、裕福な家庭だった。3人兄弟の末っ子で、両親や親戚から特に可愛がられていたという。女性は「小さい頃は、おとなしくて素直な子だったのに」と振り返る。
                                    毎日新聞 6月11日(月)
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僕は従来、世の流れに抗して、死刑判決にもっと慎重にならなければならないという立場をつらぬいてきている。この心斎橋事件のような現行犯であってもこの考えに変わるところはない。弁護側は情状酌量を求めて次のような事実も強調するだろう。すなはち。

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礒飛容疑者が小学生の時、母親が病気で死亡。父親も経営していた材木店を廃業し、生活は急変した。その後、父親の新しい勤め先に近い同県下野市に転居した。中学時代の知人男性によると、礒飛容疑者は高校には進まなかった。地元の暴走族に入り、バイクで暴れ回るようになった。次第に薬物に手を染めて逮捕されるなど、荒れた生活を送っていたという。
                                    毎日新聞 6月11日(月)
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ところが世論は、すなはち裁判員は聞く耳を持たない。厳罰化に走るだろう。まるで開拓時代のアメリカの西部の馬泥棒を裁く裁判だ。磯飛は前科もあるようだがこのときは薬物反応は出なかったのか。そんな反応出ていようといまいと磯飛は殺してしまえという意見が強かろう。それは誤りである。罪刑法定主義が守られるかぎり判例には拘束されるのだ。とりわけよい子だった子が人殺しをした。そこに潜む深いなぞを明らかにした後でも死刑は遅くない。磯飛殺せ殺せという前に、なぜやったのかなと考えることは無意味なことか。ことを一般化できる能力があれば、貧困の持つせつなさや悔しさやあせり、・・・それらが少年をどう絶望させたのか、に考えが及んでくると思う。目の前の磯飛しか見えないならば、二人も殺したんだから死刑だ、で思考はとどまるだろう。

僕は磯飛の言ってることに釈然としないものを感じる。「だれでもよかった」「死刑になると思ってやった」そう思ったのは事実だとして、人は突然そんなことを思いつくようにはできていない。彼は思いつづけていたのだ。思いつづけていたことには異論はないだろう。では彼がその思考に至った経緯の解明は全く不十分であり、解明すべきものとして存在している。

磯飛は救いを求める目をしている。

このシリーズは学校でも取り上げたことのあるテーマです。続けますのでコメントはお待ちください。

どんなに族のカシラで威張っても、相手の族とケンカして勝っても彼には帰るところがなかった。当然に薬に走るだろう。自分だったらそうならないと何人が言えるか。このとき彼は死刑台のエスカレーターに乗っている。無意識に。

貧困を嘆くことは許されないことか。一部の例外を持って、努力すれば何とかなったと、軽々に言えるか。中卒の道はそんなに広いか。みんな低学歴に泣いてるじゃないか。貧困にあえいでいるじゃないか。低学歴と貧困という波が同時に彼を苦しめつづけた。貴様殺してやる、というところをほんの偶然で押しとどまった人は多いはずだ。では偶然で押しとどまらなかった人を死刑にしていいのか。

熟練の裁判官は知っている。生活の転落が人の心をどんなに焦らせるか。居場所がない人間は必要以上に残忍になる。それが40年も50年も続いたことによって今度は国から殺されなければならないか。

そうだという人たち。あなた方はオオカミに傷ついた羊をささげて自分たちだけの安泰を図っています。
Posted at 2012/06/12 00:52:01

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