か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

インチとミリのハイブリッド

2014年10月05日 | 東洋歴史

1930年代後半以降、中国の空は隼の空だった。

いつもこれに「だがしかし」という条件がついてとても残念だ。ゼロと同じく極限以上の軽量化は多くの不必要な補修のための労力と時間と習熟飛行を要した。

昭和30年代、中学生の僕はじいちゃんに連れられゼロ21の引き上げに立ち会った。発動機は隼と同じ。博多湾岸に水没していた。

なぜ右翼は、こんなボロエンジンとボロ機体をほめるんだろう。航空工学を修め、モノになる奴はアメリカかドイツに留学していたはずだ。

したがって、アメリカだろうと日本だろうとドイツだろうと理論においてはまったく差がない。

問題は工業力か。それも平均50倍の違いなのですぐ負けるほどの差ではない。問題は知力と資源と生産手段の取捨選択にある。貧乏人が余裕もないのにバカなものまでだらだら作り、あげくに負けた。負けたそのドイツでさえ驚くべき風洞実験装置を持っていた。日本の風洞は家庭用扇風機程度だ。これだから最後までフラッターに泣く。



こんな国が敗戦後20年も経って、まだまともな自動車一台作れないでいた。世はスカイラインだ、2000GTだと浮かれたが、これらのクルマは空中に投げ上げられたこんにゃくのように震え、たわみ、ねじれて走った。

バカはメーカーのキャッチコピーを喜んで鵜呑みにした。その神話を喜んだ。しかも、貧乏人には絶対の夢であったにもかかわらず、わがことのように夢中になった。

落としたら割れるスパナーで何を締めろというのか。アメリカの高校生は昭和の始めからHigh Schoolには車で通った。

27000ccをわずか星型直径1m20センチに抑えたのは評価するが、まにあわせだ。トタン屋根のように薄い排気管、外板はなんと0.3ミリ、オイルクーラーの配管の素人くささ、電装の甘さ。アメリカのコピーを無理に軽量化したダサい、失敗作だ。

戦後20年、昭和40年。その旧敵国からのKnock downでオースチンのエンジン技術を輸入した。今の日産マーチのエンジンの源流になっている。鮎川は戦前戦中から政府の絶大な庇護を受け小型トラック、後のダットサン、を作っていたが乗用車には使えないまがい物だった。

ボディーはそこらの町工場の技術を盗み、張り紙細工の車を作り、Bluebirdと称した。

ここにエンジンはインチ(英国インチ)、ボデーはミリのハイブリッド車が誕生した。プラスアース、ラダーフレームまがいのモノコック。無理なハーネス、64馬力。室内に草が生える防水性。

だが、あまりにも細かいことを、どうしたこうした言う気はない。その細かい事実をバカにして終わりにするのは最高に悪趣味だ。

ポイントは、戦後20年もたって車ひとつまともに作れなかった国が、その時からさらに20年も前に突然ひらめいて永遠のゼロ(エンジンは隼と同一)を造れるか、ということだ。

飛行機がまともになることは永遠に可能性がゼロなのであり、クルマがまともになることはさらに20年たって(昭和60年)からであった。

そのKnock down欠陥クルマは64万円でほぼ東京郊外の一軒家の価格だ。ほとんどの労働者は高卒で2万/月がいいとこだった。

先日、このインチのスパナを盗られた。返さなくていい。バカや泥棒が触ったものは不潔だ。だがいきさつを書いて用心を訴える、次回。

とは言うものの、寄せ集めのローテククルマだったが、僕は今の最高級車より好きだ。どんなに故障しても上品だ。



 

 


「震電」にゆめを見るな。

2014年07月25日 | 東洋歴史

 

 

 

 

後ろにエンジンを積んで、まるでジェット機のように進む姿は日本機の中ではユニークだ。駄作だったとか欠陥機だったとかいうのではない。設計製造調達事務、みんな必死に働いた。

必勝の信念?昭和20年になってその信念を持つのは、Fnaticな気違いだけだ。とうの昔に負けは確定し終了のゴングがなりひびいている頃、小日本は恩着せがましく支配地が独立するのを、思い出したように認めた。そんならなぜ最初っから独立を認めなかったか。負けて引き上げるときに捨て台詞のように独立してもいいよとは、現地を最大に馬鹿にする言葉だ。

5万や10万の日本兵が戦後もオランダと戦ったか。それをさして植民地解放の戦いというか。気が狂った言い草で笑いたくはない。

フィリッピンひとつとっても、日本軍は陸海とも現地人の諜報活動に負けた。内地のつもりで傍若無人にふるまうニワカ軍人はゲリラから格好の標的にされた。フク団(フクバラハップ団、親日ゲリラ)は、現在でも命を狙われている。これほど嫌われたのに何が解放の戦いだ。かび臭いことをいうと恥をかく。


話を戻して震電。これを言うと、ひがんでねたんでコンプレックスをもっていじけた人が痙攣を起こして絶叫するので気の毒だ。僕は仮名(かめい)で書いている。それがブログというのだろう。だからここで自慢しようなどさらさらない。じいちゃんが設計者だ。

九州飛行機は工場を300箇所に分散し爆撃の被害の最小化に努めた。海軍技師として徴用されさらに九州飛行機に出向した。他のゼミの仲間はすべて戦死した。

希望は往々にしてだんだん幻の真実に近づく。前脚の開いたスペースにはゴムボートを仕込み、パイロットを救おうとした。ばか。話には出たが設計されたことはない。成層圏から落ちてゴムボートで魚釣りするのか。

ジェット化の計画があり、それが間に合えばB29は軽く打ち落とせた。ばか。エンジンの前にパイロットと武装があるため、現状ですら冷却に成功していたとはいえない。そのうえジェットに換装出来るはずなかろうが。クレヨンとお絵かき帳とあれば分かることだ。現状は弾の出る体当たり機だった。

戦後、朝鮮戦争も終わりKASUGA Baseは撤収されることになった。どうやってこんなにたくさんの荷物を持ち帰るのかと思ったら全部置いて帰った。金持ちの国と戦争をしてはいかん。低脳が負け惜しみばっかり言う。子供の目には先が見えぬほどF86FSABRE(セイバー)が並んでいた。

F86Fから好きなものをとれ、後はスクラップだ。といわれた。子供だった僕にはじいちゃんがとってくれた。メーターパネルを頂いた。翼もはがした。きれいに切って下敷きにした。メーター類はその後、クルマやバイクのメーターになった。それと、Jet Fin。

国家秘密だグダグダグダ、なんていわないこのおおらかさに小日本は負けたのだ。

画像にあるように、ブレード(フィン)根元の切りカキが見えるだろうか。プラグマチズムがここにある。ここにピンをはさみ遠心力で固定するようにしていた。このときは昭和35年ぐらいだが原型は昭和20年に出来上がっていた。即座に1万3千機作る。橘花が10機作れたか。現実を見て殺し合いをしろ。気違いになってわめきあう中からはよい発想はうまれない。

現実を正しく見て効果的な作戦を立てるべきだ。

このフィンは今でも僕の机のよい文鎮だ。ずっしり重い。横にあるのは僕のペンです。比較してください。

グニャグニャ投げたこんにゃくのように共振しながら飛ぶ、寄せ集めの張りぼて震電は、セイバーと戦わなくて本当によかった。じいちゃんは画像のジェットフィンを手にして言った。

「ウワー、負けた。」





  

 


植田少尉

2014年06月26日 | 東洋歴史

 

半島の食うや食わずの貧乏百姓が、身の程知らずにも帝国の軍人にあこがれた。帝国は、朝鮮人の手を借りてまでしてこの戦争を勝とうと思ったことはない。終戦直前は例外であったが。

そこで多くの朝鮮半島男子は、日本人の養子になることにより法の目をくぐり帝国陸海軍の一員になろうとした。高木正雄という赤貧洗う生活をしてきた男がいる。低脳でかろうじて(ビリで)教員養成所を出ると付近の小学校に着任した。

こうして、朝鮮人、低脳、さらにもうひとつ、彼の劣等感が加わる。帝国は彼など必要としなかったのだ。命をささげようとして断られる屈辱とは、いかほどであろう。つまり、軍人になる夢は断たれた、かに見えた。

それを救ったのは満州国軍だ。そこで気に入られた高木は、コネを使いこともあろうに帝国の陸軍士官学校に入る。

もちろん最下位だ。席次を発表しない伝統をいいことに成績を捏造し、帝国が瓦解すると同期の朝鮮人を集めて韓国の大統領になる。その娘がパククネだ。

高木正雄こと朴正熙(パクチョンヒ、ぼくまさてる)。

タイトルの植田少尉は生粋の日本人だ。高木偽日本人より数年先に、陸士に入学していた。今の防衛大と思ってもらっては困る。陸軍士官学校(以下陸士)と防大とは、東大と地方国立大学の違いだ。

満州、新京育ちの日本人は、受験のため上京し、帝国の威容に驚いた。植田は、皆がそうであるように一年弱で少尉に任官する。機関銃隊小隊長。内地勤務。

これは、僕の推測だ。もうこれ以上戦死者が増えたら、戦後自立した復興が不可能になる。兵は3割死んだが将校は9割死んでいる。将校が戦闘を避け兵を前線に追い立てたという風説は誤りである。

陸士といえばそのまま大学で教えることのできるほどの人たちだ。その彼らが9割死ねばなにがおこるか。戦争の行く末は、誰でも分かっていた。参謀本部も戦後の人材を考えたのではないか。植田少尉が戦地に行くことはなかった。

昭和18年まではどの任地に転属になっても弾は1千万発あった。最後に彼が勤務したのは、長崎県雲仙市愛野町。

敵の上陸に備えた。ということだが、配給された弾は一丁当たり5発だった。0.1秒撃てば弾がなくなる戦争をしていた。8月9日、わずか30キロ離れた長崎からの光と爆風は、彼の階級章を吹き飛ばした。

僕の歴史の先生だ。

 

 

 

 

 

 









Wrench(レンチ)

2014年06月06日 | 東洋歴史

Spanner(スパナー)と同一のものらしい。僕は比較的小さいものがスパナーで大きいものがレンチと思っていた。小さい頃、たとえ土間の上であってもレンチを落とすとひどくしかられた。いらいらしているときにはレンチで殴られた。 

父親がクルマきちがいであったので僕はよく修理を手伝った。たたかれた僕は鼻血が出た。原子力のせいではない。

普段はまったく子供に興味はなく、世間体のため思い出したように発狂し成績を上げろといった。

僕は思った。そんなら人の頭をたたくな。

だが、虐待したのと同じ回数ぐらい、物の仕組みはよく教えてくれた。その中でよく記憶に残っていることがある。本人が痴呆が入ってきたので、同じ事を何回も言うようになったせいもある。めかけ遊びばかりするので、僕と弟は梅毒だといっていた。いったい彼は何の仕事をしていたのだろう。ということを、ふたたび20年もすれば僕の子供が僕のことを書くだろう。

スパナには裏表がある。ワッシャアにもある。締め付けトルクはこうして覚えろ。・・・車庫から戻ると家には黒板があり、自分の言ったことを数式に直して納得させた。小学生の僕は泣きながらその式を解いた。無理無理。解くフリをした。以降、人生でこのときほど解きにくい式に出会ったことがない。

応力を一点にかけない。というのが大体の原則である。そこで写真にあるレンチの図を例にするので見てほしい。左を向いた片口レンチ。ボルトの頭をつかむところが左方にしかない。

その「口」が15°グリップ棒からずれている。ということはボルトに延びる2本のキャッチがそれぞれ異なる形をしているということだ(上側が下側より長い)。今ここで仮に上側の長いキャッチをA、短いのをBとおく。大きいレンチになればなるほど、A、B、逆に使うと、わりと簡単に壊れる。

とくに、モンキーレンチの場合は短い側(B)のキャッチがねじで動くから壊れやすい。現代でもモンキーは他に方法がないときのみ使う。

戦前は材質が悪かった。そう。そのとおり。そこで思考が止まるのがポン介だ。落としたら割れるダイキャスト、裏表のあるスパナ、ワッシャア。しかし、だからこそ物の性質をわきまえ、先人の苦労に感謝するということを知っていた。

なぜ15°曲がっているか。15°に行き着くにはどれほど多くの人がぼろ工具に泣いただろう。

宇佐の航空隊跡に行った。永遠のナントカというアホ用映画に使われたゼロ21型があった。掩退壕も見た。僕の気に止まったのは、一本のスパナだった。24ぐらいの片口。キャッチ(B)が折れていた。そこで5ミリ厚ぐらいの鉄板で両側から挟みこみドリルで穴あけしてリベットでとめていた。

つまりレンチ一本のゆとりもなく戦争をしていた。

戦争とは命と物資の使い捨てだ。ゼロ戦をはじめ戦闘機を9年も使う貧乏国に何ができよう。

この貧乏国では、レンチはおそらく20年は使われたはずだ。レンチで殴られ体で覚えた整備兵が、そのぼろレンチを万力とヤスリで修正し、リベットを使い継ぎ足しして使っていた頃、捨てるほど有り余るSnaponのワゴンからレンチを取り出し、アーミーのDJを聞きながらコーヒー片手にグラマンを整備したら、どっちが勝つと思うか。

このアメ公たちは、仕事が終わると基地の前にあるパブに行くのが楽しみだ。レンチをウエスで拭きジョークを交わしキンキンに冷えたビールを目指す。このパブは、沖縄上陸一週間後には営業していた。

一方、小日本の整備兵。ぼろレンチでもたたかれると体が痙攣する。8月15日を過ぎると、そのつぎはぎレンチは床に捨てられた。見たくもない。宇佐航空隊には将兵6,100名が勤務した。帝国海軍が解体したとき、怨念のレンチをひろう者はいなかった。





  

 


松尾敬宇中佐 オーストラリアが尊敬する帝国海軍軍人

2014年04月13日 | 東洋歴史

豪州(オーストラリア)は戦時中、必ずしも米国と団結していたわけではない。

戦略もなく開戦し戦略もなく戦った小日本は、銃から弾を出すだけが戦争と信じ、どこで戦っても鳥羽伏見の戦いから進歩したことはない。

小日本が米豪の分断を仕掛けた形跡はない。せっかく可能だったのに。勝機に鈍感な日本は近代戦を知らない。

一部の低脳に率いられた哀れな将兵の大量自殺に過ぎなかった戦いを、見苦しいことに負けてないとか、勝っていたとか泣き言を言うのが増えてきた。

戦時中も、そういった目立ちたがり屋の、表面的に勇ましいが中身は低脳な偽善者のせいで犠牲になったものが多い。

僕がこのように断定できるのは、松尾中佐がいるからだ。もう亡くなったが、すっかりおばあちゃんになられたお母さんは90度に曲がった腰をして地面だけみて歩いた。仏事のときも決して何も言わなかった。骨になって帰った息子を見てうれしい母親がどこにいるか。

しかし、明治の女は語らない。沸沸たる思いを抑え込みながら語ることなく亡くなった。

名誉の戦死だというバカがいる。おまいらより松尾中佐は、はるかにはるかに頭がよかったんだ。熊本県鹿本中学(現、鹿本高校)から海軍兵学校に進み優れた成績を残す。

両親が教員で厳格な家庭に育つ。現在は両親が教員だとしても躾がきちんとしていることはない。だが教養がないと「敬宇(けいう、よしたか)」という名は浮かばない。

名誉の戦死、殉職自体はありうる。戦略上数万の兵を見殺しにすることはありうる。

しかし、2本の魚雷を抱いて敵の防潜網に突っ込ませるのはただの人殺しだ。なぜなら防潜網を奇跡的に突破しても、照準をつけるには潜望鏡深度まで浮上しなければならない。   

驚くべきことに、この特殊潜航艇という人間魚雷は潜望鏡深度を取ることができない。艦橋を浮上させるしかない。敵に自分の位置を明確に教えてあげた。その上魚雷を運よく発射しても、その瞬間軽くなった潜航艇は、大きく鯨のように海上にのたうつ。

魚雷はこの時代でも星型レシプロが常識だ。電池でテレテレ30ノットで進んだ。魚雷を撃ったあとの潜航艇は潜航できない潜航艇だ。

ダウンしたボクサーは殴られ続けた。そして山鹿市が生んだ奇跡の秀才は無駄に海底に消えた。

豪軍の「鉄の棺おけ」という表現は言い得て妙だ。しかし、敵であっても、お粗末な潜航艇であっても、乗り組んだ軍人まで嘲笑するのは失礼だ。

つまり必ず死ねという命令だった。生還の見込みがない命令は、よほどの戦術上の効果が期待できなければありえないものだ。ところが効果はおろか、確実に見えていたのは死だけだった。

国内の戦意発揚のためにいけにえにしたのだ。戦意発揚のため人の死を利用する時点で戦争は負けている。

さらに戦後になっても、欺瞞的平和主義は老母を豪州に向かわせ首相などに引き回している。

今、彼の墓の横に豪州と日本の旗が立つ。まやかしは止せと思った僕は、この旗を引き倒していいか聞いた。どうせ腐れて落ちます、といわれた。田舎の人は優しい。





 

ウソはしきりと絶叫する   9

2014年02月01日 | 東洋歴史

1903seoul_seodang_byherbertpontingこのシリーズもかれこれ一年になる。まるで公務員の仕事のようだ。遅い。いかん。急ぎます。

韓国のインテリ層には、冷静にものを見ることができる人がわずかながらいる。低能になるに従い盲目的な愛国者が増えるのは、両国同様だ。マインドコントロールの言葉は、常に分かりやすく疑いをはさみにくい。

日本ほどではないが、韓国にも良心的、科学的思想の持ち主はいる。今や実体験に基づいて政府のプロパガンダを否定できる人は死に絶えた。だからこそ社会科学の力が必要なのだが、韓国にその伝統はない。4千万人の政府の犬がいる。

これは一概に不幸なこととは言えない。犬は号令さえ変えれば何のためらいもなく右だ左だと向きを変える。

10年前、韓国は空前の日本語ブームだった。口々に、日本語は国際語ですから、と言った。聞いてもないのに言った。今や見る影もない。あっという間に大学の日本語学科の希望者は、10分の1に激減した。

クネの狂乱が収まればまた政府は号令をかける。日本語は国際語です、と。とたんに低脳は、日本にしっぽを振って日本語のテキストを開く。

韓国では今の時代は、信念を通そうと思うと命がけだ。交通事故とか、自殺とか、虫刺されとか、迷宮入りの他殺で死ぬことになる。そんななか、この本に出てくるソウル大の先生達に敬意を表する。僕の延世大は政府の犬ばかりだった。まともな人は海外逃亡した。

===============================

「日帝強占期(日韓併合から日本の敗戦まで)の土地収奪」「慰安婦の強制動員」 

                                       アンビョンジク ソウル大名誉教授
                                                                                                              

日帝強占期には、あからさまな土地収奪はなかった。結論から申し上げますと、あからさまな土地収奪はなかった。それは、私達が全国各地に残っている「土地調査簿」とか「紛争地資料」とか「地籍図」とかを10年にわたり検討をした(結果分かったことである)。

当時の朝鮮人達の土地所有意識は、大変に高いものがある。そこで「お前の土地か、俺の土地か」に付いて、いい加減にしたはずはないのである。であるから最終的に民事裁判の土地所有関係の争いにまで発展した例は全国で2件しかない。

この点は研究途中のものもあり、公開したものではないが、なぜ韓国人は簡単に、(土地を取り上げられるような)紛争地について裁判を2件しか起こさなかったのか。確かめてみるべきだ。(あからさまな土地収奪があったならもっと紛争が起こったはずだ)

慰安婦の強制動員については証拠が一つもない。慰安婦問題のポイントは、どこにあるのか。慰安婦がいたということは言うまでもないことだ。それを否定できる人はいない。「慰安婦を強制動員したのかそうでなかったのか」がポイントだ。慰安婦を強制動員したという一部慰安婦経験者の証言がある。

しかし、韓国であれ日本であれ客観的な資料は一つもない。まさにここが問題だ。慰安婦の強制動員については証拠がない。日帝強占期に、裕福な人は娘を慰安婦に出さなかったし貧乏人は娘を慰安婦にした。つまりこのことは一定の自発性があったともいえる。(少なくともだれからも強制されてない)自発的慰安婦。それは客観的歴史的事実である。

                                 (からけん訳、カッコ内は訳者が付記しました)




昭和9年の日米陸上競技

2014年01月27日 | 東洋歴史

いまは鉄筋の立派な競技場となった。かつては観客席も低く、申し訳程度にできた競技場だった。しかし、隣には競馬場あり夏には花火大会あり、いちご畑もあって福岡市南部の市民の憩いの場となっていた。

更に広く位置するのは帝国陸軍の春日原基地だ。陸軍は、すでにこれより3年前から満州事変をでっちあげ満州偽国家を画策した。米国は判断に迷っていた。満洲偽国家を非難しすぎると自国が中国に橋頭保を築く根拠を失う。

親日から反日に大きく舵は切られつつあった。このわずか数年の空白、あたかも間氷期のような時期に陸上競技会は行われた。偶然のバランスは、だれもが続くはずないと分かりながらその場の親善を楽しんだ。あと6年したら真珠湾攻撃が行われる。

隣の陸軍基地から軍人たちは、いかに苦々しい思いでこの祭典を見たことだろう。非常時に「かけっこ」なぞしおって。

一方米人選手、役員の中にもその陸軍基地をしっかり観察する者がいた。浮かれているのは福岡市民だけだ。アメ公は観客席からトイレの数を数え、兵の数を割り出し、張り紙細工のような戦車なるものを笑った。本国への貴重な諜報資料となった。

引き込み線の長さから兵員輸送力を計算するのは掛け算さえ知っていれば誰にでもできた。おそまつ帝国陸軍は、春日原基地を通過する列車に乗った日本人に対し、カーテンを降ろすよう命じていた。

そんならアメ公の諜報活動を何とかしろ。

若干の対立はあったにしろアメ公は陸、海軍、政府、民間、経済界、が能率的有機的合理的に結合していた。

海軍が融通してくれないからと陸軍が空母を造る国が小日本だ。同口径の弾が陸軍は6種類あった。バカかやる気がないかその両方なら戦争はするな。315万人を殺して責任もとれない国が、今度は勝ちますとか防衛だけですとか言っても僕は信じない。

いつ中国で勝ったか。勝ったなら中国のどこが日本領か。ソ連の野蛮人にすら勝てないでよくぞ威張れたもんだ。

戦後、春日基地はアメ公の春日ベースになった。父に連れられ将校住宅に遊びに行った。ミカンが凍っていると思い僕はびっくりした。それはグレープフルーツだった。知る由もない。




教官、私は飛びおります。八幡市を守って下さい。

2014年01月26日 | 東洋歴史

きょうは、習熟飛行を兼ね郷土遊覧飛行だ。陸軍はこのような飛行を禁止していたが、ここばかりは大目に見るという暗黙の伝統があった。

あの苫(とま)曹長(終戦時)が、故郷に来る。飛行機で来る。錦を飾るとはこのことだ。国民学校の少年たちの声は聞こえるはずもないが、あらんかぎりの大声でヒーローを迎えた。女学生たちはセーラーの赤いネクタイを振った。

「飛燕」だ。大きく校舎を旋回した。みんな願っている。どうか敵機を落として下さい。

さかのぼること2年。開戦間もなく苫曹長は少年飛行兵を受験した。60倍。一人でも多くの飛行兵がほしいところだが、帝国は粗製乱造を許さない。飛燕は当時のカネで10万円。労働者が1000年働いて一機買える値段だ。

なんと言う浪費だ。だからこそいい加減な奴を乗せるわけにはいかない。学科試験がすむとクルクル回され気をつけの姿勢をとらされた。ここでふらつく者にはこの言葉が待っている。「帰れ。」

京都までの旅費には、あまりある40円が渡された。遊ぶものはいない。ほとんど父母に渡すと最低限のカネを手に指定の京都に向かった。

襖が開くと見たこともない料理が待っているが、少年たちは芸子さんのおしろいの匂いにもぞもぞしてしまう。まだ15歳だ。大津陸軍少年飛行兵学校。当然翌日からは、地獄の訓練が待つ。

成績の悪いものは、地上勤務だ、爆撃機だ、あるいは整備だと、どんどん落とされクラスに2人ぐらいしか戦闘機に乗れるものはいない。

苫曹長は残った。大刀洗分校で訓練を受けることになり、教官と一緒だが飛燕に乗って習熟飛行の許可が出た。

教官の上に座るのだから申し訳ないような嬉しいような不思議な気持ちだった。

無電が入る。八幡がやられている。70機のアメ公の爆撃機に対し帝国は24機の戦闘機しかない。自分の機には弾は50発しか積んでないが、一機でも仲間を助けよう。苫曹長は、遊覧をやめ八幡に向かうことを具申した。

「海上で待ちかまえれば必ず会敵できます。」「お前がいては戦闘できん。」「分かっています。私は飛びおります。」

なんと言う素晴らしい戦闘精神だ。兵はこうして戦ったんだぞ。終戦とともにさっと旗を持ちかえる大本営よ。この一兵卒に学べ。

教官は、攻撃命令がこないので苫曹長の死のダイブも止(と)めて帰還した。

(苫先生も僕の数学の先生です。亡くなりました。数年前に聞いておいた話です。)


まず敵の衛生兵を撃て。

2013年10月15日 | 東洋歴史

Dienbienphu4_3

(ディエンビエンフーにある戦勝記念碑)

2013年10月4日、ベトナム政府広報は、ボーグエンザップが同日にハノイ市内の108軍病院で死去したと発表した(満102歳没)。ベトナム人民軍関係者の強い後押しもあり、通常は国家主席、首相、国会議長、そしてベトナム共産党書記長のみが対象となる国葬が営まれることとなった。現地時間10月11日12:00から13日12:00にかけて、行われた国葬には、ベトナム政府首脳から一般市民まで幅広い弔問客が多く訪れた。遺体は、故郷であるクアンビン省に埋葬された。     by Wiki

========================================================

身内、親せきのいない兵を集めよ。将校はいかん。その兵を各小隊に配置せよ。

敵との距離が接近してくるとその兵は、爆弾を背負い敵のトーチカ(防御陣地)に入り口から入って自爆した。この当時は、どんな精密爆弾も入口を見分けることはできない。

命じたのはボーグエンザップ将軍だ。戦略と戦術と戦闘を指揮した。日本の指揮官とは違い先頭に立った。その戦闘により隻眼になり腕も悪くした。赤いナポレオンと言われるが、本当にナポレオンの戦法を研究した。それどころかアレクサンダーの戦いからベルダン攻防戦まで体を壊すほど研究した。決して共産党が強制したのではない。バカに強制しても時間の無駄だ。

少し頭が悪いと古くなった武器を軽蔑し、そこから学ぼうとしない。なあそこらの右翼、防衛大学に行って世界史の授業を受けてみろ。ファランクスや重装歩兵の考え方はいささかも古くなってない。

ディエンビエンフーの戦いにおいて、彼がとった多くの戦法のうち上記の「衛生兵を撃つ」ことと「自爆を命じた」ことについて少しだけ書く。

ジュネーブ条約には違反だ。しかし米国とは決定的に異なる点がある。アメリカは南ベトナムに世界最高の猛毒ダイオキシンをまいた。数百年にわたり奇形児を生まなければならなくなったベトナムの母親の気持ちを考えろ。無害というアホがいるが、お前こそダイオキシンを食ったのか。ご飯にかけろ。

アメリカは第二次世界大戦で使われた爆弾の量の十倍の爆弾を北ベトナムに落とし毎年900人の子供を殺した。共産主義者なら子供でも殺していいわけか。

それでもアメリカは帰る場所がある。本国だ。ベトナムはアメリカにやられたら帰る場所がない。アカ(共産主義者の蔑称)が攻めて来るので防いでやってるのか。大きなお世話だ。しかも、アカが勝利した今はアメリカとベトナムは友好的である。

人殺しを殺すのは権利である。それならより効率的に殺さねば負けて殺されるだけだ。衛生兵には死んでもらおう。

アメリカの北ベトナム爆撃によって多くの戦争孤児が生じた。この孤児たちはもはや命も惜しくないほどアメリカを憎んでいる。まさに苦渋の決断だった。この孤児こそ国が救うべき子供たちではないか。それを人間爆弾にするなんて。彼は小日本帝国の軍隊に学んだ。

ボーグエンザップ将軍は、自分の信念が揺らげば国が滅ぶことを自覚している。断腸の思いで子供たちを突進させた。

ただし、小日本と違うことがある。小日本は仕方なく、成り行きで、ルーズベルトの陰謀で、と言い訳がましく理由を並べあてもなく開戦した。

ボーグエンザップ将軍は科学的な計算によって論理的に勝利を導きだしていた。だから、ディエンビエンフーの戦いはケサンなど各地の戦いに続いた。

「ベトナム人は決して誰の奴隷にもならない 自由に勝る素晴らしいものは無い」


ファンを減らすいけない日々の告白   3

2013年09月15日 | 東洋歴史

この娘はなかなか可愛い。且つ利発さを感じる。会話の受け答えの素早さ、的確さにおいて秀でたモノがある。いまだにそうなのがその証拠だ。ちょっと作り笑いをしているが、それは撮る側の問題で、日本人に多い「顔なし」のような「ほり」のない顔とは違う。

長年セーラー服に囲まれて教師をすると分かるものだ。こいつはいい女だ。

戦後も日本はインドネシアの資源によだれをたらし、インドネシア共産党のスカルノ大統領が来日した時は土下座せんばかりの接待をした。

日本がオランダの支配を駆逐したからインドネシアは独立できた。このすぐ論破される妄想にしがみつく脳軟化症たちがいる。いつインドネシアが頼んだか。敗戦して引き上げたのを独立させてやったとはヤクザの捨て台詞だ。いつか書きたい。

日本へ来たときのスカルノはバンドン会議を主宰しまさに第三世界のリーダーだった。

と、こんな話を続けると必ず読者は減る。止めましょう。

最初に書いた「いい女」は、日本の右翼が関与して斡旋したといわれる。東北の極貧の娘は定時制も中退するほどであった。あたかも自然を装って日本の官僚とこの右翼は、スカルノにこの「いい女」を差し出した。スカルノは気に入り第三夫人にする。スカルノはのちに失脚し「いい女」すなはちデビ夫人はパリに逃げる。

先日、おっぱいパブに誘われてスカルノのような接待を受けた。カネのない僕は自分のカネでは到底こんなところに来られない。面白いことが起こった。

代議士は僕を先生と呼ぶ。と言ってもたかが学校の先生だ。僕も相手を先生と呼ぶ。それは代議士の先生だからだ。それを聞いたお姉ちゃんたちは、とたんに僕にまつわりだした。さては医者か弁護士か、と。脳みそが溶けて乳に入ったのだろう。セーラー服を着ていても手が入れやすいだけでなぜかデビ夫人のようなドキッとする感じがない。オマエら乳女は70の婆あの知性に負けている。

スカルノは差し出された女を無条件にインドネシアに連れ帰ったのではない。

乳女よ、いくら僕にまつわりついても・・・ なんて無粋なことは言わない。幸い代議士の下半身には理性がない。僕も。

先日、瑞宝会という時計宝石の発表会にデビさんが来ていた。最近カリスマ性が出てきた。

  Posted at 2013/09/11

ゼロは凡作、雷電は欠陥機だ。

2013年09月08日 | 東洋歴史

一年越しのプラモデルの雷電がもうすこしで完成だ。たくましい体をしている。

性能
高度6,000mにおいて325ノット(約601.9km/h)以上。340ノット(約629.7km/h)を目標とする。上昇力高度6,000mまで5分30秒以内。航続力最高速(高度6,000m)で0.7時間以上(正規)。武装20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺。その他操縦席背面に防弾板を装備する。

紡錘形に絞り込んだ機体は、最高速の向上が期待されたからだ。前面カウルの内側は強制冷却ファンが回る。このファンはプロペラの回転より早く回転し日本的工芸の精緻さを見せる。このファンとイグゾーストのターボファンの音はキーンという金属音を生んだ。

1000馬力前後のエンジンで昭和20年の戦争を戦おうとした低脳海軍は、やっと昭和20年2月になって次期戦闘機に期待しはじめた。

しかし、そのころは日本は、設計や生産や物資や制度やガソリンそれらすべてに絶望すべき状況であった。

堀越技師は優れた技師ではない。ゼロの最初の戦果は複葉機を相手にしたものだ。低翼単葉は世界初ではない。bf109を見よ。日本より5年も早い。時代は700キロの時代になるのに軽さが売りのゼロ21は速度が出ない。問題はエンジンだが堀越にも責任がある。受風面積にこだわるあまり配管の無理な引き回しが増えた。銃はコピー。そもそもエンジンもプロペラもコピーだ。翼に無防備にガソリンを積み風貌は防弾ガラスでもない。

無理な軍部の要求だという能天気がいるが、ハイと言った堀越はもっとバカだ。技師は命をかけねばパイロットに失礼だ。

元山航空隊の基地司令は空母赤城を沈めおめおめと自分だけ助かった青木泰二郎だ。現場のパイロットは互換性がなく精度の甘さに泣かされながら、補給もない中苦労して部品を作り、夜を徹して整備していた。それでも整備兵はまだいい。朝になると飛行士は、毎日来るグラマンと格闘した。

「無能な経営に泣かされる現場」という図式は今も変わってない。

同じ海兵を出ていても要領がいいと司令官になり従兵や隊長機を持つ。僕の知る井上少尉はゼロ52のパイロットだ。

雷電のデストリビューターはふたり抱えで引き抜き整備した。それだけで4時間かかる。無意味な凸凹、お粗末電装、不合理な計器盤、死ねと言わんばかりの着陸速度、弾詰まり、暴発、意味のない装甲板(グラマンの弾が当たると機体全部が爆発した)、デストリビューターの奥にあるターボ。最大の欠陥は長いプロペラシャフトの共振、それを予期しつつ対策をとれない技師の無能。

内地から運ばれた雷電は半分も動かなかった。パイロットが地上で死ぬことほど悔しいことはない。

青木泰二郎司令は元山空で終戦を迎えた時、内地に飛行機で戻り、残された隊員たちはソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。青木の行動は「敵前逃亡」である。

一方この前、井上少尉が死んだ。井上少尉は、ひきょう者青木のことは語らなかった。6回撃墜され6回目には12.7ミリが頭をかすった。でも彼は、ゼロ52で4機撃墜している。「私は帝国軍人としては失格です。落とされた回数が多いですから。」

聞いたか青木、敵前逃亡野郎。井上先生は静かな先生だった。静かに僕に数学を教えてくれた。また一人「男」がいなくなった。

奥様から勲章をたくさんいただいた。「遺品なのにいいですか。」と言うと、「要りません。」と言われた。


お母さんの小さな乾坤一擲(けんこんいってき)

2013年08月12日 | 東洋歴史

大分県の山奥まで握り飯を楽しみに勤労動員に来ていた少女は、場所を移して勤労動員することになった。久留米市の日本タイヤ株式会社だ。(現、ブリジストン)

ここでも相変わらず会社や配属将校は、そのスケベ目線でよだれをたらし、かわいい子は事務職に引き上げた。クーラーの入ったその部屋でのお茶くみは、級友たちから相当のやっかみを受けた。「美人でごめんね。」嫌味な少女は成績もよくさして嫌がらせはなかったそうだ。

その少女も今年で99歳だ。来年100歳まで生きるかどうかわからない。意気軒高である。母だ。

8月11日、午前10時頃、米軍機P26・ P38 約50機による久留米空襲がはじまった。200名死んだ。4000軒燃えた。どこを探してもこの記事だ。気に食わん。だがよく読め、ここばかりは、やられっぱなしではない。

だから何機落としたんだ。国粋主義のでたらめ資料は源田実のように水増ししてサイパンのB29がなくなりそうな勢いだ。嘘をつくな。これだけ時間が経ったら一次資料がモノを言う。

母は一次資料だ。P38はテニスコートを逃げ惑う女学生を撃ち殺した。人間は水風船だ。弾が当たるとパチンと音がする。体はぐんぐん小さくなり血が出た。四肢が四散した時はどうなったかわからない。友人と自分さえ助かればいいと思いレンコン畑の斜面まで走った。

この時日本の双発機が邀撃に現れた。足の遅いといわれるP38ですらJAPのまね事双発機より100㌔速い。12.7㎜だけで爆発し青空が残った。

しかし、もったいないことにそれは囮だった。P38は迂闊にも高度を下げ金魚すくいをするように無心に月光を狙った。

帝国海軍は温存したゼロ52型をこの時とばかり使った。死角の超低空にゼロは、復讐心に燃え満を持していた。スーパーチャージャーがうなりを上げるとほとんど90度で碧空に舞い上がった。優位戦に持ち込んだゼロは一つ一つとP38を屠った。

女学生たちは隣接する病院を狙ったP38が許せない。アメ公の星のマークが落ちるたび友達と抱き合って喜んだ。あるアメ公がパラシュート脱出した。ゼロが許すはずない。アメ公は操り人形のように手足を回していたがやがて死んだ。高度が高いパラシュートは翼でひもを切った。

ゼロは編隊を組みなおすと大村基地に帰る。とその時、スライドして一機が近寄り翼を振った。「仇はとったぞ。」

あと20機のゼロ52がいれば月光は犠牲になることはなかった。そして一週間して終戦になった。

ゼロ52の記録がどこにもない。命がけで英知の限りを尽くしたパイロットは名前すら残していない。女学生の声援に翼を振ってこたえたゼロファイター。もう空に消えたかもしれない。僕は彼の背中に勲章をあげる。

Posted at 2013/08/08

貧困が強制した。

2013年08月12日 | 東洋歴史

戦前、本当の悪魔は隠れていた。うちの借金は膨らむばかり。一度に返すには前払金をもらうしかない、娘と引き換えに。貧乏が悪いじゃないか。なぜ貧困は責められず、親が責められ、あるいは憐れみを受けねばならぬのか。貧困という悪魔はずる賢い。

こうして娘は身売りした。世界最強の一等国は、田舎で人身売買が横行する極貧三等国であるのが実態だった。親は泣く泣く娘を売り、借金の埋め合わせにした。

学がないとはかくも悲しいことか。小作人が来年の小作に雇ってもらえるかどうかは、地主の気まぐれ一つにかかっていた。下手すれば文字通り路頭に迷うことになる。地主が小賢しく、どこぞの小作は娘を売って小金を手にした、と知るや、その小作の耕作条件は悪化した。

つまり一時的に小作が手にした娘の販売代金は、女衒や地主たちのトリックにより金持ちに還流した。小作は来年の種もみに手をつけることで糊口をしのぎ再び悪夢の借金は膨らんだ。

次男、三男は兵隊になり戦死してくれる。借金には二女を売る。

他に道があるか。この親を責められるか。われらはみんなこの親の子孫だ。

優れた小学生がいた。学校のだれよりもその子の方が成績が良かった。しかし、中学にいけなかった。貧乏だったからだ。彼は、卒業式のその日から働いた。卒業式の帰り道、自転車に乗った担任の先生と会った。親は「親せきのうちに行っています」と言ってごまかした。そしてわずか12歳の少年は職場に向かった。一等国の子供は12歳から働いた。

彼は数年して夜間中学の存在を知り、そこを卒業した。さらに血を吐きながら勉強し海軍兵学校に合格した。結核も奇跡的に完治した。帝国でもまれな学費のない完全官費支給の学校だ。

彼は優れた将校ではなかった。農作業で日焼けした兵たちが、かつての自分と重ならないはずがない。兵は彼を慕った。彼が優れてないというのは、兵に死ぬなと言い続けたからだ。「身を鴻毛の軽きに・・・」というよい将校ではなかった。

海軍兵学校の成績は一生を支配する。十位以内だった彼は参謀候補だったが、死地に死地にと転属させられた。それでも生きて帰った。僕のおじさんだ。あるとき、おじさんが恩賜の軍刀で鉛筆を削っているのを見た。陛下の軍刀で鉛筆を。今思うとカッコいい。

いいか朝鮮人!戦前は慰安婦はどこでもいた。どこでも貧しかったからだ。植民地支配が悪いとかいうなら、金日成のもとに行き帝国ときちんと敵対せよ。

Posted at 2013/07/27


NAURU・・・崖に走る自殺国

2013年07月24日 | 東洋歴史

1942年日本軍はここを占領した。一年後米軍との死闘が始まる。両軍ともリン鉱石がほしかったのだ。日本軍はリン鉱石を資源化する間もなく死散しサンゴ礁の魚のえさになった。

見込みのないことをした報いだ。

戦後独立したナウルは多様な生き方が選択できたにもかかわらずなぜかリン鉱石のみにこだわった。    

================

アホウドリを始めとする海鳥の糞の堆積によってできたリン鉱石の採掘によって栄えた。世界で最も高い生活水準を享受し、税金を徴収されず、医療、教育は無料、年金制度(老齢年金ではなくベーシックインカムとして全年齢層に対する給与としての支給)を始めとした手厚い社会福祉を提供していたが、20世紀末に鉱石が枯渇しそれらはすべて破綻、基本的インフラを維持するのでさえ困難な深刻な経済崩壊が発生している。               Wiki 

================

このばかたれが。のうなるなえに(なくなるまえに)対策をたてんか。と思うが、さらに行き当たりばったりの外交、難民対策は余計に国際関係を悪化させた。彼らはリン鉱石が本当にゼロになるまで繁栄を享受し、リンが尽きるや、突然、労働を知らない阿修羅の群れが意味もなく街を徘徊する最貧国になった。

だめになる前に対策を立てよというのは、意外と難しい。日本はどうだ。戦果を上げるつもりで戦艦大和を出したのか。特攻がどう戦局を変えたのか。原爆を落とされてすら終戦は困難だった。

バカはやりだすと止まらない。昨日下道(したみち)で帰っていたら新設の大学を見つけた。国立大ですらそのうち定員割れが必ず出る。子供がいなくなるからだ。九州では地方の国立に行くのは相当の低脳だ(理系を除く)。そのうち欠員だ。福岡の私立に行く。共産党とかは学生の負担軽減とか言うが、現実を知らない。それくらいのカネはだれでも持っている。地方国立では就職にあぶれる。私立ならなおさら。なのによく文科省は認可したな。普通10年かかる審査が1年半だ。何か臭うな。調べてみる。

そこでユニークな学科で対抗しようということらしい。訪ねていくと勉強の内容には一言も言及がなかった。ただあったのが、「オープンキャンパスに来ただけで学費は半額にしますよ、交通費は5千円まであげますよ。」だった。どうせバカな学生が来ると思って必死でバカ扱いしたな。

ただよく考えるとどちらがナウルか。無為無策で朽ち果てるのを待つ地方国立、あさましく獰猛に人を集める偽大学。

もっとすさまじい大学がある。オープンキャンパスに行くとそれだけでノートパソコンをくれる。

Posted at 2013/07/23

第二次上海事変(再論)

2013年07月24日 | 東洋歴史

戦争は銃でするようだ。Jonny got his gun.と言えばジョニーが戦場へ行ったことの比喩だとされる。しかし、それほど銃が当たるのであろうか。狙撃においては現在ほぼ1000メートルまで射程は伸びている。だがそれはじっと何日もスコープに敵兵が入るのを待つことのできる右翼の好きなブータン人が得意としたことである。

撃ち損じて弾が急所をそれ苦しむ日本兵をそのグルカ兵は、焼き鳥のくしのように串刺しにした。これは牟田口が常道を外れた作戦を強行したからである。

中国大陸に行ったのが間違いだったとかほざくバカがいる。そんなら樺太は何だ。攻めた覚えはないぞ。中国をとる理由がないなら樺太をとられる理由はもっとない。つまり、

戦前までは領土は弱いものがとられるという鉄の法則で動いていた。

さて38銃だ。弾が湿る。製造工場によってでない弾がある。銃の「くせ」が大きく他人の銃は使いにくい。3.7キロ(着剣して4.1キロ) 地獄の重さだ。一度ポロポロのプラスチックごっこじゃなくて本物を持って山を走れ。必ず死ぬ。走れなくなったら味方の将校が撃つ。

したがってこんなもんで当たる筈はない。実際弾に当たって死んだのは戦死者の2%だ。砲撃、擲弾筒(手榴弾発射機)、重機。兵は赤い液体となって宙に舞った。

しかしここで困るのは便衣隊だ。民間の服装をしているしどこから撃ってくるかわからず非常に困った、とはどの戦争手記にも書いてある。

これは殺すべきだ。ためらったら味方がやられる。市民も含め全員殺すべきだ。それが残虐という
なら中国に行くべきではない。すべての責任は軍がとると言って始めた戦争だから政府は宣戦布告すらしてない。皆殺しの戦争になるのは必然であった。

さあ、責任とれよ陸軍。寡兵よく大敵に抗しと美化されるが、嘘だ。日露戦争以上の死者を出している。

井戸に毒瓦斯(ガス)を入れて苦しませるのは、一人でも敵兵がいる可能性のあるとき当然だ。南京大虐殺をなかったとかいうのもおかしな話だ。弾は民間人と便衣とを分けて飛ばない。

子供の首を切って母親に渡した。父親に娘とSEXをさせた。すんだら殺した。寒いからと家に火をつけて回った。いくらでもある。裏もとっている。上海から南京まで続けた。

一体虐殺でない戦争がどこにあった。

Posted at 2013/07/20