1930年代後半以降、中国の空は隼の空だった。
いつもこれに「だがしかし」という条件がついてとても残念だ。ゼロと同じく極限以上の軽量化は多くの不必要な補修のための労力と時間と習熟飛行を要した。
昭和30年代、中学生の僕はじいちゃんに連れられゼロ21の引き上げに立ち会った。発動機は隼と同じ。博多湾岸に水没していた。
なぜ右翼は、こんなボロエンジンとボロ機体をほめるんだろう。航空工学を修め、モノになる奴はアメリカかドイツに留学していたはずだ。
したがって、アメリカだろうと日本だろうとドイツだろうと理論においてはまったく差がない。
問題は工業力か。それも平均50倍の違いなのですぐ負けるほどの差ではない。問題は知力と資源と生産手段の取捨選択にある。貧乏人が余裕もないのにバカなものまでだらだら作り、あげくに負けた。負けたそのドイツでさえ驚くべき風洞実験装置を持っていた。日本の風洞は家庭用扇風機程度だ。これだから最後までフラッターに泣く。
こんな国が敗戦後20年も経って、まだまともな自動車一台作れないでいた。世はスカイラインだ、2000GTだと浮かれたが、これらのクルマは空中に投げ上げられたこんにゃくのように震え、たわみ、ねじれて走った。
バカはメーカーのキャッチコピーを喜んで鵜呑みにした。その神話を喜んだ。しかも、貧乏人には絶対の夢であったにもかかわらず、わがことのように夢中になった。
落としたら割れるスパナーで何を締めろというのか。アメリカの高校生は昭和の始めからHigh Schoolには車で通った。
27000ccをわずか星型直径1m20センチに抑えたのは評価するが、まにあわせだ。トタン屋根のように薄い排気管、外板はなんと0.3ミリ、オイルクーラーの配管の素人くささ、電装の甘さ。アメリカのコピーを無理に軽量化したダサい、失敗作だ。
戦後20年、昭和40年。その旧敵国からのKnock downでオースチンのエンジン技術を輸入した。今の日産マーチのエンジンの源流になっている。鮎川は戦前戦中から政府の絶大な庇護を受け小型トラック、後のダットサン、を作っていたが乗用車には使えないまがい物だった。
ボディーはそこらの町工場の技術を盗み、張り紙細工の車を作り、Bluebirdと称した。
ここにエンジンはインチ(英国インチ)、ボデーはミリのハイブリッド車が誕生した。プラスアース、ラダーフレームまがいのモノコック。無理なハーネス、64馬力。室内に草が生える防水性。
だが、あまりにも細かいことを、どうしたこうした言う気はない。その細かい事実をバカにして終わりにするのは最高に悪趣味だ。
ポイントは、戦後20年もたって車ひとつまともに作れなかった国が、その時からさらに20年も前に突然ひらめいて永遠のゼロ(エンジンは隼と同一)を造れるか、ということだ。
飛行機がまともになることは永遠に可能性がゼロなのであり、クルマがまともになることはさらに20年たって(昭和60年)からであった。
そのKnock down欠陥クルマは64万円でほぼ東京郊外の一軒家の価格だ。ほとんどの労働者は高卒で2万/月がいいとこだった。
先日、このインチのスパナを盗られた。返さなくていい。バカや泥棒が触ったものは不潔だ。だがいきさつを書いて用心を訴える、次回。
とは言うものの、寄せ集めのローテククルマだったが、僕は今の最高級車より好きだ。どんなに故障しても上品だ。