か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

韋駄天 (いだてん)

2018年10月25日 | 東洋歴史

旧制玉名中学を卒業後、1910年明治43年)、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学する。

1911年(明治44年)、金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋[3]で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となった。

 
ストックホルム近郊のマラソンコース上の町・ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板。

1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。

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生家

当時の日本は国民全員が飢餓線上をさまよう絶望の島だった。今でも女を理由に大学を落とされ、賃金分配率は170位だ。だがカネさえあればなんでも可能であるのは今以上だ。和水町がとくに貧しかったのではない。

わずか6000万の人口で620万の軍を抱えれば、腹いっぱい飯を食うのが子どもたちの最大の願いとなるのは必然だった。

帝国が絶望から抜け出せたのは民族の優秀性が理由だったか。井底の蛙は叫ぶ。大和民族はあ~。金鵄輝く日本のお~。嘘だ。付随した理由を並べても何のツッパリにもならない。

本質は何か。

帝国の教育政策にある。津々浦々に小学校を置いたに。今は廃校を増やして明治政府の偉業を経済的基準のみから破壊している。現在より少ない児童数の小学校が普通だった。

 

金栗は小学校も、玉名中学も毎日ではないが走って通った。舗装はもちろんない、街灯もない。それどころか急坂は自転車で通うことも不可能だった。もちろん、学生が自転車に乗ることはありえない。

平坦な道を走ることは金栗にとっては遊びごとだ。坂道では全然別の筋肉とエネルギーの分配法が必要だ。箱根駅伝を始めた本人はその坂道に意義を見出した。

 

僕は半日かかって90歳以上の人なら金栗と直接話をした人がいるはずだから探した。見つけた。

「ああ、造り酒屋の金栗さんね。」というおばあちゃんにあった。百姓をしていては東京の大学に行くことは不可能だ。防空壕を一緒に掘ったこと。50歳ぐらいになっていたはずだが、滑るように走ったことなど、楽しくお話を聞かせてもらった。

 

故郷は手の平を返す。金栗は故郷のヒーローか。NO, 科学的トレーニングという考えは高地トレーニングの導入につながった。今更金栗記念館だと。そのうち金栗饅頭でも売り出すぞ。

一粒300メートル、道頓堀のグリコの走るオジサン。金栗さーんと言えば返事をするかも。

 “In 1967 he returned to Stockholm at the age of 76 and finished his marathon run. Therefore he has the "slowest" finishing time ever in an Olympic marathon with 54 years, 8 months, 6 days, 32 minutes and 20.3 seconds, a record surely not to be broken.”

 


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