《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

でも! 有難うございました

2010年09月17日 | Weblog
ウォーキングの途中に雷と風と急な大粒の雨にあっい、近くの建築資材置き場のシャッターの下で雨宿り。従業員の方が通りかかられたので雨宿りをさせて欲しいと言うと「もっと中に入ったら…」と親切に声を掛けてもらった。お言葉に甘えてテント屋根の下に入り風雨の影響は多少ましになった。次に通られた方は「止むまでゆっくりしとり」とまた優しいお声掛け。雨も小降りになってきたが、もう少しと思っていたら、今度は少々若い方が来られ「ここは私有地や!分ってるか?」と冷たい眼差しで云われた。雨は少し残っていたが50分間余りの雨宿り、仕方なく虹の掛かった空を見上げながら失礼をした。
(今日の歴史=742年聖武天皇が巡察使を七道諸国に遣わす)

畝傍山へ「橿原遺跡」

2010年09月16日 | Weblog
陸上競技場周辺に広がる縄文晩期を中心とした西日本を代表する遺跡であるが、この案内板以外にそれらしきものはない。紀元二千六百年記念祝賀事業の拡張工事に伴い、1938年(昭和13年)から発掘調査され、この調査が橿原考古学研究所発足の契機となった。縄文後期後半の宮滝式(吉野)から晩期後半の凸帯文土器まで継続してあり、東北地方の大洞式土器も含み、遠隔地(亀ヶ岡土器)との交渉を示すもので、晩期の浅鉢形土器には「七宝形文」が施され、「橿原土器」と呼ばれ、瀬戸内東部から関東まで幅広く分布する。(完)

畝傍山へ「畝傍山頂より平城京を望む」

2010年09月15日 | Weblog
西北の山腹に畝火寺とも呼ばれた慈明寺跡があり、西麓にある畝火口神社(大峰大明神)は「延喜式」の畝火神社とされる。毎年11月の住吉大社の祈年祭、新嘗祭に用いる土器の「埴土」(http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no11.html)は「埴使」によってこの畝傍山頂で採取される。画像は奈良平城京方面を望む。
(今日の歴史=1600年関が原の戦いが行われる)

畝傍山へ「畝傍山」

2010年09月14日 | Weblog
円錐形で標高199.2メートル、お峰山、慈明寺山とも呼ばれた。畝傍山、耳成山、香具山の大和三山の中ではもっとも高い。「うねび」の名は「うねり」のある山、尾根が多い「畝尾」の意とされる。見かけによらず急勾配の道が続く。
(今日の歴史=1331年楠木正成が北條高時追討のため河内で挙兵する)

畝傍山へ「イトクノモリ古墳」

2010年09月13日 | Weblog
畝傍東麓に営まれた全長約30メートルとみられる前方後円墳で、江戸時代に「いとく宮」があり、地名から懿徳陵(第4代天皇)ともされた。明治41~42年に前方部が平に削られ土師器小型丸底壷や二重口縁壷が出土。森本六爾(じ)・高橋健自らによって前方後円墳起源論争が行われたことで、学史的に知られている。現在は後円部だけが神宮外苑の池田神社社地として残る。
(今日の歴史=1568年織田信長が六角氏を近江観音寺より追う)