陸上競技場周辺に広がる縄文晩期を中心とした西日本を代表する遺跡であるが、この案内板以外にそれらしきものはない。紀元二千六百年記念祝賀事業の拡張工事に伴い、1938年(昭和13年)から発掘調査され、この調査が橿原考古学研究所発足の契機となった。縄文後期後半の宮滝式(吉野)から晩期後半の凸帯文土器まで継続してあり、東北地方の大洞式土器も含み、遠隔地(亀ヶ岡土器)との交渉を示すもので、晩期の浅鉢形土器には「七宝形文」が施され、「橿原土器」と呼ばれ、瀬戸内東部から関東まで幅広く分布する。(完)
最新の画像[もっと見る]
- 富雄川流域探索「浄福寺の巨樹」 3年前
- 富雄川流域探索「大倭神宮」 3年前
- 富雄川流域探索「聖徳寺」 3年前
- 富雄川流域探索「大和国鹿島香取本宮」 3年前
- 富雄川流域探索「霊山寺2」 3年前
- 富雄川流域探索「霊山寺1」 3年前
- 富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)2」 3年前
- 富雄川流域探索「杣(そま)川(がわ)1」 3年前
- 富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社2」 3年前
- 富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」 3年前