遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『正倉院の秘宝』  梓澤 要  廣済堂出版

2017-12-12 20:26:18 | レビュー
 1999年に出版された古美術分野を扱う推理小説である。ごく最近、この本のことを知り読んでみた。

 権力者右大臣藤原不比等の娘、安宿媛(あすかべひめ)は、光明子と呼ばれるようになる。聖武天皇のもとに入内し、最終的には皇后となる。奈良時代の天平文化はこの二人のもとで花開いた。聖武天皇は、東大寺の盧舎那仏を造立しその開眼法要を終えると、娘に譲位し太上天皇となり756年に没する。光明皇后は同年、聖武上皇の遺品を東大寺に納めてしまう。いわゆる「正倉院」の始まりである。正倉院に納められた品々は『国家珍宝帳』という記録文書に残されている。一方正倉院から出庫された物は『出蔵帳』に記録され、それが存在するという。
 この小説は、『国家珍宝帳』に記載があり、『出蔵帳』に葛木戸主(かつらぎのへぬし)が持ち出し責任者としてのサインが記録されている「黒作懸佩刀(くろつくりのかけはきのたち)」という短刀に絡んだ推理小説である。葛木戸主の名前は『国家珍宝帳』の巻末にもその名が記載されているという。

 主な登場人物をまず挙げておこう。
 加納理江子 美術月刊誌『古美術薫風』編集部の編集部員。次期編集長候補者。
 里見圭吾  古美術専門のフリーカメラマン。奈良市在住。加納がよく依頼する。
 木崎修造  元編集長。理江子の元上司。記事捏造理由で懲戒免職となり行方不明。
 田沼    現編集長。理江子の上司。取締役出版部長に昇進予定。
 金子    理江子の同僚。
 草山寺の庵主 元事業経営者。氏名は川村亮子。南大和の丘陵地帯にある無名の寺。
 瀬戸    寺付近の住人。夫妻で草山寺の管理に関係してきた。庵主は元雇い主。
 佐倉俊介  奈良の古美術商老舗・求真堂の主人 木崎の時代から理江子は面識あり
 岩熊教授  啓明大学の看板教授。美術史学会の大御所。仏教美術史の最高権威者。
 高梨晴秀  美術史家。岩熊教授に対立し論陣を張った研究者。

 この小説には、いくつかの異なる次元での推理が重層化していて相互に密接な関連もあるという興味深い構想のもとでストーリーが展開していく。正倉院展鑑賞の常連者や古代史ファンにとっても興味深い小説だと思う。
 メインのストーリーは、『古美術薫風』の編集者である加納理江子が、担当ページの『大和山寺逍遙』の取材と撮影のために、かつての上司木崎のお伴で訪れた事がある草山寺を再訪する場面から始まる。理江子は観光コースから外れた無名の寺や雑仏を選んでひなびた古刹と仏像の連載企画を担当している。仏像の撮影を担当するのが里見圭吾である。草山寺の庵主は、理江子が木崎と来たことを覚えていた。そして、その後木崎がときどきこの寺にきたことがあると理江子に語る。
 里見が仏像の撮影をしているとき、理江子は堂の西奧にひっそりと安置された厨子に気づく。庵主に尋ねるとふだん開けることのない秘仏のようなものという。厨子にはいたるところに呪札が張られている。観音扉は閉められているが中央の止め金具に錠はついていない。庵主の許可を得て、理江子は里見とともに、厨子の中の秘仏を拝見した。厨子の中には、古美術雑誌の編集者として10年余のキャリアを持つ理江子ですら見たことがない異形の秘仏が納まっていた。「ほぼ等身大の木造坐像だ。豊かな上半身に薄く襞の多い衣をまとい、裳で覆われた下半身は片膝を立て、もう一方の脚は横坐りのようにゆるく折って、ゆったりと座している。そしてその像は、奇妙なことに黒鞘の刀を胸に抱いていた」(p209)
理江子と里見はこの不思議な仏像に魅了され、それぞれがそのルーツを探り始める。草山寺での取材の数日後、理江子は「秘密を暴く者には恐ろしい災いがふりかかる」と墨書された脅迫文の入った封筒を受けとる。差出人名なし、編集部宛、消印はゴジョウ、ナラと読める。これが始まりだった。

 理江子と里見はそれぞれ異なるアプローチから、異形の秘仏が抱いていた黒鞘の刀が正倉院から消えた刀ではないかという仮説を立てたくなる情報を見つけ出していく。この発見した秘仏の抱く黒鞘の刀が、正倉院の秘宝なのかどうか? 古美術雑誌の編集者にとって、またとないチャンスの到来なのかも知れない。一方で、古美術界での新発見に絡んだ話題で木崎が失脚して行った経緯をつぶさに体験している理江子は、慎重にこの新発見らしき秘仏への対処をはかる必要性に迫られていく。
 そんな状況下で、田沼から田沼自身の役員昇進予定と次期編集長候補に理江子の名も上がっていることを仄めかされる。併せて、田沼は理江子以外の人物を編集長に想定していることも。つまり、理江子は慎重な行動と業績を求められる立場に置かれる。

 当然のことながら理江子と里見は、自分たちの推理の確かさをまず資料に基づき確認する推定作業からはじめることになる。そして仏像の詳細撮影を密かにする。その写真をもとに、まず専門家の岩熊教授の鑑定評価を得ること、傍証固めのできる材料を提供することも必要となる。着実なステップを極秘裏に推進する必要に迫られる。
 そんな矢先に、伊江子は正倉院展の会場で、高梨に話しかけられて、彼が既に異形の秘仏のことを暗に知っていると匂わされる。秘仏の解明のための行動が進展するプロセスで、草山寺の庵主が夜間に怪我をするほか様々な出来事が発生し、事態が錯綜していく。そして遂に殺人事件までもが発生し、理江子が巻き込まれる事態に至る。

 この小説、メインストーリーは伊江子が発見した異形の秘仏、黒鞘の刀に関わる対応プロセスの進展を描き出すところにある。黒鞘の刀が正倉院の秘宝かどうか? その過程でなぜ2つの殺人事件がなぜ発生したのか、それがどのように関わるのか、犯人はだれか? 古美術の世界における鑑定プロセスの裏方話が織り込まれながら、里見の協力を得て事件に巻き込まれた理江子が推理するというストーリー展開になる。

 このメインストーリーと重層化しながら、別次元の推理が展開されていく。
 一つは、聖武上皇の没後、光明皇后が時を経ずして聖武と光明子に関わる御物一切をなぜ東大寺に奉納したのか、つまり早々に正倉院御物にするという行動をとった背景に何があるのか。二人の関係及び光明皇后の思いに対する推理である。著者はその推理を理江子の推理、里見の協力に託して物語っていく。「あとがき」に著者は書く。『東大寺献物帳』に光明皇后が書いたという願文(哀悼文)が記されていることについて、「二人は仲睦まじく、先の哀悼文がそれを照明しているといわれています。でも、はたして本当にそうだったのでしょうか?」と。さらに、「この本は、聖武と光明子という一組の夫婦の物語です。と同時に、母と娘、そして父と娘という親子の物語でもあります」と記している。この一文からメインストーリーの展開は表層であり、真に語りたかったのはこちらの次元の推理だと言うニュアンスすら感じ取ることができる。

 もう一つは、正倉院から失われてしまった「黒作懸佩刀」という「幻の秘宝」の史実を踏まえた推理である。この幻の秘宝が、当時の政治状況、朝廷における熾烈な権力闘争に関わっているという推理が興味深い。なぜ、どこに消えてしまったのか? 史実を背景に、藤原仲麻呂の存在と朝廷における政治権力闘争の構図が推理されていく。
 さらに、その黒作懸佩刀が、フィクションとしてのこのメイン・ストーリーにリンクしていく。「幻の秘宝」物語でもある。

 メインストーリーの展開の中に組み込まれた支流のようなものであるが、ビジネスの場の推理という局面も加わる。理江子の務める出版社における社内の人間関係、昇進に絡まる人間構図における確執やパワー・バランスという局面での確執と推理である。理江子のサバイバルゲームといえるかもしれない。女性編集者、更には編集長への道を切り開いていくための駆け引きと推理である。この支流はメインストーリーにリアル感を加えていく。
 
 この小説の副産物は、仏像基礎知識として、仏像の種類や奈良時代の仏像製法などに親しめるということ、さらに古美術鑑定の視点がどういうものかを垣間見ることができることである。私自身にはこちらの側面もおもしろく感じた。
 
 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
正倉院  :「宮内庁」
   武具
正倉院  :ウィキペディア
正倉院  :「コトバンク」
正倉院宝物について キッズサイト :「YOMIURI ONLINE」
美術商 :ウィキペディア

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『荒仏師 運慶』 新潮社
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