遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『光の王国 秀衡と西行』  梓澤 要  文藝春秋

2017-12-15 22:45:04 | レビュー
 平泉の中尊寺、そして金色堂という言葉は日本史学習の一項目として知り、金色堂の写真を見たこともある。しかし、当時の陸奥については全くというくらいに知識がなかった。藤原清衡が中尊寺を建立した。その清衡からはじまる奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の四代で滅びたという。源義経が奥州平泉に逃げのびたことから、源頼朝が攻め上り四代目の泰衡を滅ぼしたのだ。
 この物語は、清衡の後継者であり、骨肉の争いの中で奥州を統一した基衡の苦悩と奥州覇者の生き様を背景にして描かれる。基衡の子秀衡と奥州に足を向けた西行との出会い、そして西行が平泉に滞留した期間における二人の交流を中心に、当時の奥州という一種の独立王国の様子が鮮やかに描き込まれていく。

 全体は7章構成になっていて、その後に「名残の月あかり」という西行の回顧独白の記述が付く。第1章から第6章までが、西行が初めて奥州への旅に出て、偶然に秀衡と出会い、そのまま秀衡の館に伴われてそこに滞在した期間の見聞物語である。
 そして、第7章「いまふたたびの」は、西行が43年ぶりに奥州を訪れ、出家していた65歳の秀衡と再会した折の状況を描く。平重衡が南都を焼き打ちし東大寺と興福寺が焼失する。重源が大勧進となり東大寺の大仏再建に邁進する。重源より西行が秀衡に勧進に行ってほしいいと請われたことによる奥州への旅である。奥州の繁栄ぶりが43年前との対比で描かれる。それは「まさに北の都、仏国土ですな」(p365)という西行の感想に集約される。

 それでは、第1章から第6章のメインのストーリーに入って行こう。
 23歳で出家した西行は、25歳の折奥州平泉へ一種のスパイとして情報収集に出向かざるをえなくなる。何故か。西行が内大臣頼長のもとに、待賢院璋子御落飾の一品経結縁の勧進のために出かけて行き、頼長の助力を得られたのだが、奥州に西行が状況偵察に行く事を交換条件として出されたのである。陸奥と出羽両国にある関白所領の荘園からの年貢徴集に関連する情報収集という課題、つまりスパイ活動の指示だった。
 奥州に入った西行は、山中で狩を行っている基衡の御曹司・秀衡と偶然に出くわす。そして、そのまま秀衡の館に伴われる。秀衡は西行が奥州偵察目的で来た可能性を推測しているが、そんな事は意に介さず、鷹揚に西行との交流を深めて行く。
 現地で人々に接し、各地を見聞し、西行の目に捉えられた奥州の姿が様々なエピソードを織り込む中で描き出されていく。奥州藤原氏の政治的立場、経済的な状況、奥州の有り様、基衡がどのような国造りをしているかなどである。骨肉の争いを経た中で統一に心を砕き、苦悩を抱く基衡の心境やその生き様が織り込まれていく。それは秀衡と西行の絆が徐々に深まっていくプロセスでもあった。
 西行は京の都の有り様と対比して、僻遠の地奥州を眺める。人々が大らかで、人々は平等に扱われ、相互に助け合う風土が築かれた土地であること、自然の厳しさの中で人々のまとまりを強く感じ始めて行く。西行の辿り着いた結論は、この小説のタイトル「光の王国」である。それは、中尊寺の金色堂に込められた思いとダブル・ミーニングになる形で、西行の心に映じた奥州の印象を表出する言葉である。

 メインストーリーで描かれるエピソードが光の王国を織上げていく。ストーリーに織り込まれるエピソードの主なものを箇条書きしてみる。
1. 御曹司秀衡の恋。秀衡は巌谷の里村に住む百合を恋する。しかし、秀衡の母・貴子は百合に夫基衡の側室となるように話を持ちかけていた。秀衡と百合の懊悩と行動。
2. 基衡と貴子の夫婦関係の有り様。基衡の苦悩と国造りの思い。貴子の生き様。
3. 秀衡の案内で西行が見聞した中尊寺金色堂の印象と金色堂の意義
4. 秀衡が常楽会での催しに本式の流鏑馬を取り入れたいと考え、西行を引き出す話
5. 基衡・貴子夫妻の養女である温子の恋の悩み。
6. 奥州に滞在していた少年期の千手丸(後の運慶)の行動。後に毛越寺の造仏を行う。
7. 流罪となり奥州に預けられた興福寺僧一団の有り様
8. 西行が平泉で関わりを深めた人々:自在房蓮光、十輪の生き様

 この小説から知った奥州について、いくつかご紹介しておこう。
*当時、奥州は日本の半分と考えられていた。清衡がめざしたのは中央からの自立。
*関屋を越えて、陸奥に入ると、道幅二間半(約4.5m)という広大で整備された堂々たる大道が清衡の時代に最北の津軽外ヶ浜まで開削されていたという。
 一町毎に左右交互に高さ4尺(約1m20cm余)ほどの笠卒塔婆が設置されていた。笠の下には観音開きの扉があり、中に金泥塗りの地に線彫りされた阿弥陀如来の絵姿が描かれていた。
*少し豊かな家なら鉄の鍋や心中の器や鉢を普通に使える位の経済力が築かれ、鋳造技術なども高まっていた。
*中尊寺の大伽藍は大治元年(1126)3月に、造営開始から22年を経て完成した。
 落慶供養会には、京から勅使の中納言藤原顕隆はじめ百余名の賓客を招き、1500人の僧が参集する盛儀だったという。
*基衡は平泉を大都市にするにあたり、造営中の毛越寺南門から平泉館までの一直線に貫く東西大路全長九町(約1km)を幅上十丈(30m)の街路にした。それを基軸に一辺400尺(120m)の街区を整備した。
*清衡の時代に、太宰府の大山寺が組織する貿易船(大山寺)で博多から山陰・能登を経由し出羽の湊に至る交易路を確保していた。
 基衡の代に、博多から東南海沿いに気仙湊と石巻湊までの直航路を開いた。直接貿易の手段を確保した。
*毛越寺の仏像群造立には、基衡の依頼を受けていた運慶が腕を振るった。その制作に丸3年の時間をかけたという。

 この小説は、西行の目を介して、奥州を奥州藤原氏の立場から眺めた当時の日本を描くというのがモチーフになっているのだと思う。

 一方、秀衡と西行の交流を描く過程で、京の都における西行(佐藤義清)の人間関係構図が徐々に明らかになっていく。そのため、この小説は一種の西行伝という局面を兼ねていて興味深い。出家する前、俗名佐藤義清は鳥羽院の身辺に仕えていた。著者は次の記述を加えている。(p30-31)
 「・・・・西行は璋子とはかつてただならぬ関係があった。十七歳も年上の璋子に恋い焦がれ、一度だけだが密通したのだ。
  許されぬ恋に苦しんでいる義清に同情した女房たちがひそかに手引きしてくれたのだが、逢瀬はさらに恋心をつのらせる結果になつた。
  -もう一度、せめて、もう一度だけでも。
  密会をせがむ義清を璋子は頑として拒否したから、気が狂うほどの苦しみを味わった。
  不思議な女性だとつくづく思う。璋子という女性は常の常識では考えられない。」
と。(尚、調べて見ると、失恋の相手については諸説あるようだ。)
 歌人西行というイメージが私には強くて、出家した西行が僧としてどのような遍歴を経ているのかという側面には今まであまり関心を持たなかった。先日、高野山を日帰りツアーで探訪し、西行が勧めて壇上伽藍に移築させた堂宇や西行桜があることを初めて知った。他方、この小説を読み西行がなんと30年近く高野山で過ごしていたということを知った次第である。

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中尊寺  :ウィキペディア
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  浄土庭園   平泉の世紀 
藤原秀衡  :ウィキペディア
藤原秀衡  :「コトバンク」
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中尊寺建立供養願文 平泉への道  :「岩手日報」
秀衡と義経  平泉への道  :「岩手日報」
藤原秀衡を5分で!なぜミイラにした?源義経、平清盛との関係は?:「れきし上の人物.com」
西行   :ウィキペディア
西行法師 :「河南町」
西行   :「千人万首」

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