遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『新撰組顛末記』  永倉新八  新人物文庫

2021-07-30 17:21:55 | レビュー
 永倉新八は、天保10年4月11日、江戸・下谷三味線堀にある福山藩主松前屋敷の長屋で代々江戸定府取次役である永倉勘次の子として生まれた。18歳で真刀(神道)無念流の本目録を授けられる。藩邸を抜け、本所の道場(百合本塾)に住み込み剣道に明け暮れる。25歳で隣国への武者修業を試みる。その後、小石川に道場を構える近藤勇と交わりを結び、門人扱いから客分に据えられるようになる。
 清川(河)八郎が建言し、幕府が募集した「浪士隊」に近藤勇が応募し、京に向かうと告げた時、沖田総司、山南敬助、土方歳三らとともに永倉新八も賛同し、京に上る。京で清川の策謀が明らかになると、芹沢鴨、近藤勇を筆頭に計13人が壬生村に残留する。永倉新八はその一人となった。つまり、新撰組主唱者の一人であり、ここに新撰組二番組長(副長助勤)永倉新八が誕生する。

 文庫本表紙に「新選組で唯一の生き残り」というアピール度の高いフレーズが踊る。
 裏表紙に「新選組ただ一人の語り部」と題した文が載る、その中に「新選組随一の遣い手として幾多の戦闘に加わり、十三人の大幹部のうち、ただ一人生き残った。」と記す。この文を併せて読めば、唯一の生き残りという表現が間違いとは言えなくなる。
 事実、新選組の生き残りと表現すれば、明治以降生き延びた人々が居る。少なくとも、新選組三番組長だった斎藤一は藤田五郎と改名し、警視庁に勤め退職後は東京高等師範学校に奉職したことが知られている(菊地明著『斎藤一の生涯』新人物文庫)。また、隊士だった池田七三郎(本名稗田 利八)は、「昭和4年(1929年)、子母沢寛の取材を受け、回顧録『新選組聞書(稗田利八翁思出話)』(ウィキペディアより)を口述した」という。
 永倉新八と新選組について、史実レベルでその時期、渦中にいた人物の立場からその顛末を知ることができるというのは、今後小説を含め新選組関連本を読む上で、一つの参照資料あるいは基準になる。

 末尾の「解説」に記された一文を引用しよう。大正2年(1913)永倉新八75歳のとき、「小樽新聞社会部記者の加藤眠柳と吉島力の取材を受けて、その信念を語りつくす連載『永倉新八-昔は近藤勇の友達 今は小樽に楽隠居』が始まった。」(p253)
 つまり、永倉新八が語り部となり、連載記事がまとめられたのだろう。本書では、永倉あるいは永倉新八という名前で、他の人々と同等の表記で客観的に記述されている。文中各所に永倉の考え、見方が書き加えられている。永倉は幕末という時代の一証言者となる。
 この連載を終えた1年半後、永倉新八(=杉村義衛)は大正4年1月5日に病死したという。
 
 この新聞連載が本書の原典であり、永倉新八13回忌となる昭和2年(1927)に一部改訂し私家版『新撰組顛末記』が出版され、後に新人物往来社版『新撰組顛末記』の出版となった。そして、2009年5月に文庫化された。

 本書は「浪士組上洛」「新撰組結成」「池田屋襲撃」「禁門の変」「高台寺党粛清」「鳥羽伏見の激戦」「近藤勇の最後」「会津転戦」という章立てになっている。
 冒頭で少し触れたが、永倉新八の生誕から新撰組の大幹部の一人になるまでの経緯が最初に語られる。その後は新撰組幹部の立場での視点とともに、永倉新八が直接に行動として関わった諸事実が、具体的に語り継がれて行く。
 新選組史としては抜けることのない事件、たとえば、芹沢鴨らによる「大和屋」焼討ち事件や坂本龍馬暗殺事件などは本書で言及されていない。永倉新八は関与していなかったということなのだろう。
 
 大坂での大坂力士との大げんか、池田屋襲撃などは、永倉自身が渦中にいて剣を抜き戦っているだけに、実戦的でリアルな描写は迫力がある。
 他の本で、土方歳三のスタンスは常に近藤勇を立て、近藤勇の信念に寄り添う形で、近藤をサポートする立場をとり続けたということを知った。それに対し、永倉新八は近藤勇のわがまま増長に対しては、会津侯に建白書をだす行動をとったという(p133)。近藤勇とは一歩客観的に距離を置いている側面があったことを本書で知り、興味深かった。
 「近藤勇の最後」の章に、近藤勇の居る和泉橋医学所に、会津に投ずるつもりの永倉らは面会に行ったという場面が書き込まれている。永倉らの決意、決議を説明して近藤の賛同を得ようとしたときの状況である。
近藤「拙者はさようなわたくしの決議には加盟いたさぬ。ただし拙者の家臣になって働くというならば同意もいたそう」 (永倉らの決議を近藤はキッパリと断った。)
永倉「二君につかえざるが武士の本懐でござる。これまで同盟こそすれ、いまだおてまえの家来にはあいなりもうさぬ」(近藤に厚誼の礼を述べ、原田、矢田らとともに立ち去る) p206-207
 ここに京都での新選組における永倉新八のスタンスが明確に現れているように思う。この両者の価値観の違いが、訣別の因になるようだ。
 近藤が大久保大和の変名を使い流山に行き同志を糾合するのはこの後である。

 本書の各所に、新選組の実態・状況と永倉新八を知るうえでの興味深い記述が出てくる。

 「解説」には、「新選組の記憶を丹念に掘り起こし、体験を書き綴ったり、略図など絵解きして、毎日のように訪れる記者たちに熱っぽく語りつづけた。」と記されている、一方、「遺稿は前年某に貸与せるまま行方不明となり甚だ遺憾」(p235)とも記されている。永倉新八自筆の文や略図がどこかにあるなら、見てみたい気がする。
 本書末尾に、「同志連名記-杉村義衛遺稿」が収録されている。永倉新八はこれだけの人名を記憶していたのだろうか。それとも、これをまとめるための資料を手許に集めていたのだろうか。いずれにしても、これ自体が研究材料になる資料といえる。因みに、この人名リストには、池田七三郎という名は載っていない。池田小太郎という名は載っている。
 歴史的研究という視点では、本書自体の内容をさらに客観的に分析して史実を考究することが求められると思うが、貴重な資料であることは間違いないだろう。一読の価値はあると思う。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書を読み、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
永倉新八    :ウィキペディア
[永倉新八]新撰組最後の二番組長!小樽での晩年の逸話がすごかった :「レキシル」
剣術師範として赴任した永倉新八  :「月形町」
斎藤一     :ウィキペディア
斎藤一は謎多き新選組・最強剣士 72年の生涯まとめ!その魂は会津に眠る
池田七三郎   :ウィキペディア
永倉新八生誕祭 IN 小樽 がむしん祭  :「Fanbeats」

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新選組に関連する本を読み継ぎ始めました。
次の本についての読後印象記もお読みいただけるとうれしいです。
= 小説 =
『新選組血風録』  司馬遼太郎  中公文庫
『ヒトごろし』  京極夏彦   新潮社
= エッセイ、実録、研究書など =
『新選組、京をゆく』  文:木村幸比古 写真:三村博史  淡交社
『「新選組」土方歳三を歩く』 蔵田敏明著 芦澤武仁写真 山と渓谷社



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