遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『小堀遠州』 中尾實信  鳥影社

2012-04-14 15:53:36 | レビュー
 本書を読み始め、最初に出てくる古田織部の方がまず気になって、最初から脇道にそれ、織部に関連する小説を2冊はさんでしまった。その後、本書に戻りやっと読み終えた。
 本書は1冊本だが本文2段組で838ページに及ぶ大長編の歴史小説、伝記小説である。

 、著者は「おわりに」の冒頭に「本書は、茶道雑誌『遠州』に5年半の長期にわたり連載された『孤蓬平心』へ加筆の上、上梓された」と記す。そして小堀遠州という人物の伝記小説(歴史小説)作品にしたねらいを、「信長・秀吉・家康の『武の系譜』が、歴史小説の主流となっても、利休・織部・遠州の『美の系譜』あるいは『日本固有文化の系譜』は、はなばなしいドラマの背景として押しやられてきた。筆者は、あえて『美の系譜』にこそ、我々日本人の背骨となる精神の支柱があることを、物語として紹介したかった」と記している。読後感として、まず茶道雑誌という媒体の存在がそのねらいの達成には真に相応しかったように思う。
 
 また、著者自身が「本書は、エンターテインメントを主眼とする歴史小説として書かれたものではない」と記している。時代小説を読む読者にとって通常重要な要素になるエンタテインメント性は確かにほとんどない。それを期待して読もうとするなら、読むのは止めた方がよい。
 本書は、利休と織部という二人の師が歩んだ茶の湯の道の先に、小堀遠州が自らの茶の湯の道を如何に切り拓いていったかという『美の系譜』を描き出している。利休の茶の湯、織部の茶の湯でもなく、遠州自身にとって納得のいく茶の湯を生み出すプロセスという地道な歩みを小説という形式により、遠州の目、遠州の心になって描き出したものといえる。

 本書は慶長20年(1615)、大阪夏の陣前夜、古田織部の切腹の時から書き起こされる。この時、遠州は不惑まであと三年、つまり37歳だ。だが、大徳寺の春屋宗園禅師から孤蓬の号を授かってから8年経っている。遠州の父正次はそれより10年前に、江戸出府の途中で65歳で急逝しており、遠州が小堀家の当主である。
 だが、この物語は作介(遠州)が15歳で大徳寺の春屋宗園禅師の許で参禅する時点に遡って、そこから遠州と彼が関係する人々を描き出していく。それは、遠州の師、織部が目指した茶の湯の極み、さらにはその前に利休が目指した侘び茶の世界の時代背景に対し、主に江戸幕藩体制という社会的背景の中で一武家大名として行き抜いた遠州の生き様と自らの茶の湯の道を築いていく立場・環境の違いを明らかにしていくためには必要なプロセスでもあったのだ。
 慶長13年、駿府城再建の作事奉行を務めた功績により、30歳で遠江守に任ぜられる。そこから、小堀遠州と呼ばれるようになる。その翌年、31歳にして春屋禅師から『宗甫』の号を、2年後、『大有』の号を与えられたという。
 本書は、孤蓬庵大有宗甫居士、享年69歳で眠りにつくまでの生涯を描いている。
   きのふといひ けふとくらして
  なすことも なき身の夢の さむるあけぼの
を辞世の句として詠んでいたという。

 本書は小堀遠州という人物の伝記小説ではあるが、茶の湯を軸にした美の系譜を描く教養小説という趣が濃厚である。
 美の系譜を描くにあたり、いくつかの流れがあるように思う。
 一つは、遠州が通常、「綺麗さび」と称される茶の湯のこころを築いていったその過程を遠州自身の心、考えから描きこんでいく流れである。
 二つ目は、遠州が江戸幕藩体制下で担わされた職務、とくに様々な作事奉行を遂行する過程での美の創造である。築城を含めて様々な建物の移築、新築および、作庭と新たな様式の茶室の創造を微細、克明に描いていく流れだ。
 著者は、作庭や茶室の意匠を遠州が試行錯誤し、創造するプロセスの描写に多大なエネルギーを費やしているように思う。ここでは、課された課題をやり遂げるためのプランナー兼デザイナーとしての遠州、土木建築庭園工事の総監督としてマネジメントにかかわる遠州が描かれていく。様々な町人、職人に敬意をはらい、人々の力を引き出していく遠州という人物と手を抜かず、こびずに真摯に美を追求し創造する姿が描かれる。
 本書を読みながら、遠州作として記述されていく庭園や茶室をネット検索で映像として確かめながら読んで行くというのは、おもしろい作業だった。本当は、本書片手に、その庭あるいは茶室の現地に行くのがよいのだろうけれど・・・・・
 三つ目は、第一の流れと不可分になるのだが、茶会における場の中での美の発現という流れである。
 無味乾燥な記録としての茶会記は読みづらい。その茶会を遠州の人生の時々の場での生きた茶会として再現して描き、そこに茶道具類の取り合わせや個々の茶道具類の微細な背景情報が克明に描き込まれていく。茶道具類の形姿、由緒来歴、その道具の特徴などが語られていく。その記述のウエイトがかなり大きい。この部分がまさに茶道の基礎知識・教養としての情報提示にもなっている。茶道雑誌という媒体の読者にとっては、たぶん連載でここを読むだけでも、茶会記よりはるかに興味深くておもしろい読み物になったことと想像する。茶道具類に関心のある人には読み応えのある側面である。
 遠州の茶の湯での道具の組み合わせという観点は遠州の茶の湯のこころと大きく関わるものだろう。そして、茶の湯全般を考えることにも役立つ部分になっている。私は陶器の一領域としての茶器に関心を持っているので、この微細詳細な茶道具類の説明部分を読むにあたり、ネット検索して該当物の写真を見ながら、楽しませていただいた。
 四つ目は、上記の三つの流れに様々な形で関わり、織りなされる事になるのだが、美を担う人々の人間関係、人的ネットワークからみた美の系譜である。
 名だたる茶匠、茶人たちと遠州との関わり。その大半は茶会での関わりとして描かれる。重なる部分もあるが、作事での遠州の人的ネットワークが一方にある。作庭、建築内装、茶室作りに関わってくる画家、庭師、様々なジャンルの職能者、職人のネットワークであり、作事奉行の遂行にあたり協力関係になる武家との間での人間関係、江戸幕府や宮廷人との人間関係が作事には重なっていく。茶会に関わるが、茶碗、茶入などの茶陶の関わりでの人々のつながりもある。遠州がいかに多くの人々とネットワークを築き、その関わりの中から自らの茶の湯、茶室、作庭の成果を残していったのかがよく理解できる。
 また、著者はこう記す。「寛永16年以降、大輪の花が開くかのごとく、遠州は精力的に茶会を催した。重要なのは同時代の主だった人物のみでなく、次の世を担う人材がほぼ網羅されていることであろう。」(p745)
 私にはこれら4つの流れが互いに混交・融合し合いながら、小堀遠州の物語という大河になって、止まることなく繋がり流れていくところに、興味をおぼえる。

 『武の系譜』として、本書で華々しいストーリー展開はでてこない。だが、秀吉治政の晩年から江戸幕藩体制が確立されるまでの時期、いわば家康、秀忠、家光に及ぶ江戸幕府創成期に、大名たちが家存続のためにどのような生き様を示したかという観点も、一つの武の系譜であろう。家存続を大前提に大名たちが婚姻関係を手段として、網の目の如く自家保存の為の人間関係を築いていく姿が語られている。その中で「武家の茶」の師匠として、遠州がどういう立ち位置にいたのかがわかってくる。家康、秀忠、家光それぞれが遠州と茶の湯を媒介として形作る人間関係の違いを著者は描き込む。これもまた遠州の生き方を理解する上でおもしろい観点になると思う。

 第5章「平心」で著者は「利休と織部の死は、遠州の処世に色濃く影を落としていた。伏見奉行として幕藩体制に組み込まれているかに見え、その実、茶の湯や作事での自由かつ自在な表現には、前衛的ともいえるこころの革新性を保ってきた。」(p777)と記している。そして、その直ぐあとに、遠州の言葉に出せぬ思いとして、「一人の人間としての生き様で何が真実か、何が虚像なのか、自分でも分からなくなることがある。」とつづける。
 遠州という人物の生き様にやはり多面性が内在するということだろう。小堀家という武家の主として、江戸幕府の組織に組み込まれた側面、その制約と行動の限界を踏まえた生き方を自らに課す。武の系譜という立場では、常に父正次が遠州に口癖のように「生きてこそあれ、犬死はいたすな」と言ったという言葉が根底にある。
 著者は、遠州の心には「その場にふさわしい自在なありよう」(p840)という思いがあったと描いている。
 これらが遠州という人物を多面体に見せることになるのかもしれない。

 作品構成として面白いのは、各章のところどころに「つぶやき」という記述が積み重ねられていく点である。小説本体が遠州の思い・考えを軸に展開されていく。これと併行し、遠州の妻、正室の志乃が遠州のありよう、生き様をどうとらえているかというみずからの思いをつぶやくのだ。また遠州が自ら選んで側室とした女たち、遠州の蔭の女に留まった女に対する自らの思いもつぶやく。その内容が折々に記述されていくという構成である。
 身近にいる女の目からみた遠州像ということになり、おもしろい設定になっている。このあたり、現代は女性が多く茶道を嗜まれているのだから、この「つぶやき」は、雑誌の読者として、楽しまれたのではないかと推測する。
 それにしても、志乃は賢い女性として描かれているように感じた。
 
 本書の観点を少しずらせると、遠州との直接の関係、あるいは伏見奉行、作事奉行の職を通じての直接・間接に知る関係の中での、さまざまな立場の女性の生き方、ありようをとりあげて描いているともいえる。秀吉治政の晩年及び江戸時代初期における女性がどんな環境でどのように扱われて生きていたのか・・・・その点も副次的に読み込める本書の成果物になっている。
 女性についてもう一点、その名前について。本書では、母の名は佐和、遠州は藤堂高虎の養女(藤堂嘉清の娘)を娶るがその名が志乃である。志乃を娶る前に、遠州が思いを寄せ、藤太郎という一子の母となり、蔭の女性として生きた人が持明院祥子、そして、側室として、郁、お伶という二人が。また娘の名は佐保である。
 一方、吉川弘文館刊の人物叢書『小堀遠州』の巻末にある略年譜を見ていっても、子息誕生の年譜に母の号名は記されていても、これらの名前は一切出てこない。略系図においても、子供の男子名は記されていても、女子名は「女子」と記されているだけだ。著者がこの作品で使用した名前の由来はどこにあるのだろうか。命名に興味が尽きない。

 最後に、本書で印象に残る章句を引用させていただこう。

*武功を挙げれば挙げるほど、妬まれるのではございますまいか。 p83

*およそ、世間の風評に惑わされることほど、愚かしいことはない。茶器の名物と同じで、己の目で真贋を見極めることが大切じゃ。 p84

*人も庭も天地の狭間にある。あくまでも自然に包まれたものであろう。禅の庭を心した。  p179

*いつの世にも、その時代に生かされる人物がいる。 p371 

*花は受け身なれど、自己主張もする。生ける者により生かされもするが、死ぬこともある。  p377

*形あるものはいずれ崩れる。・・・形がなくと、人から人へ伝えられるものがあるのでしょうか・・・・ある。きっとある。それはこころじゃ。形を伝えることは、そのための方便かも知れぬ。祇園祭りにもこころを伝える形がある。茶の湯とて変わりはしない。 p384

*今、無為に過ごせば、真の花は縁遠いものになるにちがいない。  p509

*茶会での客組を成功させるこつは、客人の人となりを知り、互いの相性を考慮することにある。とはいえ、この世で人間ほど複雑な存在はなく、客人の心の奥深くまで知りつくすことは不可能に近い。しいて言えば、外見で評価せず、心の眼、心の耳を働かせることだろう。  p524

*身分の隔てなく、仕事の内容で評価する人柄にほれ込んでいるのだ。年若い徒弟たちを育てようとする眼ざしの温かさが伝わる。   p547

*ひたすら耐えて、泥に咲く蓮の花になりたいものよ。  p601

*一筋縄でくくれないやっかい者が、現世を生きる者の真の姿と思う。聖者も悪鬼も同じ脚に支えられているのが人間であろう。 p630

*自然の美しい山河が眺望できるのに、築山を築いたり、山々を象る巨石を据えたりすることは景観の重複にすぎまい。  p681

*天才も磨かずして光を放つことはない。 p747

*命のある限り、虚しさは常につきまとうものであるが、務めて肯定的に前向きに生きて行くのが、遠州の信条でもある。  p751

*花は野にあるようにだよ。 p769

*こころよりいでくる茶の湯で、ありたいものよのう。   p786

*丸かれや 唯まるかれや 我がこころ 角あるものに 物のかかるに 大燈国師 p793 丸かれと 思うこころの かどにこそ よろずの事の 物のかかるに 遠州


ご一読、ありがとうございます。


付記
 気になる箇所がいくつかある。
1) p83の一行目に、「角倉素庵の手により、霊源寺として弔われている」という記載がある。以下の情報と一致しない。霊源寺からさらに移されたのか、寺名が変わったのか?素庵は了以の子である。あるいは、素庵が別に弔っているということか。
 木屋町三条下がるに瑞泉寺がある。「1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺」とされている。(オフィシャルサイト 京都観光Navi、 ウィキペデイア他より)
 http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000130
 『都名所図会』(岩波文庫)には、瑞泉寺の項に、「開基は三空桂叔和尚。本願は関白秀次公の母堂瑞龍院なり。秀次公追悼の為に建立し給うふ」と記され、その後に、秀次悪逆塚の記述がある。竹村俊則校注として、「慶長16年角倉了以によって造られた墓石。六角型宝塔」と脚注がある。(p77)
2)p548に「遠州は父政次に教わった法隆寺大工の口伝を思い出すにだった」として、口伝が9項目列挙されている。主要参考文献にそのソースがあるのだろうか。
 口伝の表現は少し異なるが、私が印象深く口伝を読んだのは、『木のいのち木のこころ 天』(西岡常一著・草思社)の中でだった。この書名は文献リストにないので、ソースを知りたいものである。
3) p605 「江戸城のお抱え庭師山本道勺も、・・・」
 山本道勺という人名を、デジタル版 「日本人名大辞典+Plusの解説」で参照すると、時代が一致しない。
 その息子の山本道句(その1その2)なら時代が整合する。道句がどこかの時点で、父、道勺の名前を継承したのだろうか。 
4)第6章に、私にはスッキリとしない筋の展開箇所がある。単なる私の理解不足或いは思い込みだろうか・・・・
 p816で、「去る十月一日、江月宗玩禅師御入寂」とある。本書の文脈とネット検索でも、寛永20年(1643)の記述である。
 p821には、正保2年(1645)12月の細川三斎(83歳)の死、その数日後の沢庵和尚入滅(73歳)が記述されている。
 その後の節で、少し時点を遡った形でスタートし、p826で正保2年10月29日の奈良・興福院本堂の落慶法要と遠州自筆扁額を掲げた記述があり、「父政次から二代にわたる悲願の成就である。(後は孤蓬庵だけになった)」とあって、そのあと、文脈的に切れ目無く「遠州が孤蓬庵を訪れる度に」という茶室についての具体的な描写へと続く。そして、空行を入れて「数日後、」という書き出しで、p830に紅雲和尚からの手紙『江月和尚の祥月命日に御目にかかりたい。できれば前日、孤蓬庵にお泊まり願えないだろうか』と、「一周忌には、龍光院に・・・」という記述が出てくる。
 節が変わり、連続的な記載と私には読みとれた故に、遠州が孤蓬庵を訪れる記述が、落慶法要よりも以前に遡った内容の描写であるとは読めなかったのだ。読み進める途中で話の展開にあれっと戸惑いを覚えた次第である。
(これは私だけの受け止め方なのか・・・・・できれば読まれた感想をお聞きしたい。)
5)著者は、遠州が春屋宗園から「宗甫」「大有」の道号を違う時期に受けたと記す。人物叢書『小堀遠州』の略年譜では、慶長14年(1609)の「2月1日、春屋宗園(円鑑国師)より大有宗甫の道号を受く(孤蓬庵文書)」と記す。このあたり、記録文書により異なる記載があるということだろうか。


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読みながら、背景や意味をより深く知るためにネット検索してみた。それをリストにまとめておきたい。

小堀遠州 → 小堀政一 :ウィキペディア
小堀遠州 :遠州流茶道HP
遠州流茶道 綺羅さびの世界 HP
小堀遠州流 松籟会 HP
古田織部と小堀遠州 :表千家不審庵
古田織部 → 古田重然 :ウィキペディア
美濃の茶人 古田織部の生涯 :「奥美濃山歩」
織部流  :ウィキペディア
式正織部流茶道  :「局長のページ うすい」
織部焼のルーツは古田織部 :「器.com」

藤堂高虎 :ウィキペディア
李 舜臣 :ウィキペディア
亀甲船  :ウィキペディア
中井正清 :ウィキペディア
甲良宗広 → 甲良氏 :ウィキペディア
松花堂昭乗:ウィキペディア
角倉了以角倉素庵 :ウィキペディア

曲舞  :日本辞典
雅楽「五常楽」 Gagaku:The old court music "Goshoraku"
舞楽 太平楽延喜楽長慶子  :YouTube
 長慶子 補足説明  :コトバンク

狩野山楽 :ウィキペディア
俵屋宗達 養源院(白象図・松図・唐獅子図等)、松島図屏風槇檜図屏風
 俵屋宗達《風神雷神図屏風》 鉢巻をした雷神に見る聖と俗の美──「佐藤康宏」:影山幸一氏
海北友雪 :ウィキペディア
 源平合戦図屏風 :東京富士美術館
狩野探幽 :ウィキペディア
狩野采女守信(探幽)
 雪中梅竹遊禽図襖芦鷺瀑辺松樹図(三之間西側襖絵)、四季松図
 大徳寺法堂天井雲龍図
源氏香、源氏香図(1)(2)(3) :「晏」の「香の話」サイト
組香 :「香筵雅遊」
禅院額字 潮音堂 

聚楽第 豊臣家の夢の跡 :「剣客商売」道場 真田勘兵衛氏
聚楽第 :ウィキペディア
岡崎市 大樹寺HP
養源院 :「私の青秀庵」の「名所旧跡めぐり」サイト
伏見奉行所跡 :京都市
春雨庵 :「山形県の町並みと歴史建築」

台目構 :「茶道入門」
孤蓬庵 :ウィキペディア
如庵  :ウィキペディア
如庵 → 有楽苑 :「名鉄犬山ホテル」
燕庵 ← 茶室・露地 :「藪内家の茶」
 「茶室・露地の図を見る」を開き、「燕庵」の項をクリックしてみてください。
転合庵 :東京国立博物館
 庵室 内部
真珠庵通遷院庭玉軒 :「お茶しませんか? 数奇屋、茶室のおさらい」
夕佳亭 :「お茶しませんか? 数奇屋、茶室のおさらい」
詩仙堂 HP 「写真で見る詩仙堂の散策」
茶室空間の美学 :西尾市HP

大福茶 :はてなキーワード
名物茶入 :「茶の湯の楽しみ」
 初花肩衝、日野肩衝、在中庵、四聖坊肩衝、楢柴肩衝、新田肩衝、苫屋文琳
 二見、国司茄子、相坂丸壺、飛鳥川、音羽山、玉津島瓢箪、玉柏、皆の川
 増鏡、廣澤、女郎花、翁、橋姫、忠度、関寺、螢、正木、村雨、玉川、
 浅茅肩衝、思河、凡、撰屑、春山蛙声、
唐物茶入博多文琳 :「福岡市美術館」
ととや茶碗 →斗々屋茶碗 :「茶道入門」
楽茶碗名物一覧 :「お道具イロハ」 seiyudo氏
小堀遠州作茶杓
 清美関虫喰茶杓(小堀遠州作)、安禅寺
織部好みの伊賀花入 銘 からたち生爪
織部好みの水指 銘 破袋 

鎖の間 :「建築情報.net」
鎖の間 :「茶道体験教室」ミッキー氏
台子  :ウィキペディア
千載和歌集断簡 日野切 :文化遺産オンライン
化粧屋根裏 ← 天井 :「数寄にしませう。」
 茶室の掛込天井(かけこみてんじょう)化粧屋根裏
 化粧屋根裏 :「JAANUS」
茶道用語 :
 朝日焼、風炉、炭斗、炭点前、濃茶、薄茶、鐶(かん)、寄付、迎付、挽家

群書治要   :文化遺産オンライン
本光国師日記 :ウィキペディア
吾妻鏡  :ウィキペディア
吾妻鏡 目次 :三浦三崎ひとめぐりさんによる読み下し文

=遠州の庭=
京都 高台寺 :「高台寺  早わかりNavi」
京都 南禅寺 :「日本庭園的生活」j-garden-hirasato氏
京都 金地院 :「閑古鳥旅行社」木村岳人氏
京都 孤蓬庵 :「京都の庭園ガイド」
京都 天授庵 :「京都の紅葉」H.Nishio氏
京都 三宝院 :醍醐寺 HP
静岡 龍潭寺 :「日本庭園的生活」j-garden-hirasato氏
岡山 頼久寺 :天柱山頼久寺HP
擁翠園  :「戦国武将の館Ⅲ」青山ろまん氏
「擁翠園」保存の方針 視察記録 :.tomoko-kurata氏
高野山天徳院庭園 :高野山霊法館
龍潭寺庭園 :「滋賀文化のススメ」
清水寺 成就院庭園 :清水寺HP

桂離宮  :ウィキペディア
桂離宮の写真 :宮内庁
桂離宮 :「京都写真」youpv氏
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桂離宮    :ウィキペディア

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モッコク(木斛):ウィキペディア
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「茶の湯のコミュニティー :『天王寺屋宗達他会記』に見る交友の時系列分析」
  山田哲也・矢野環 氏
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