四条大橋を起点にして、八坂神社までの区域や先斗町などは、京都で生まれ育ったために、幼い頃から現在まで数え切れないほど往来してきている。「都をどり」、「温習会」など幾度も鑑賞してきたし、舞妓さん・芸妓さんと多少は話をする機会もあった。島原の街も幾度か訪れ、角屋や輪違屋の建物内部を拝見したこともある。北野天満宮とその周辺の探訪で上七軒の外観も眺めた。
しかし、「京の花街」の実態はほとんど知らないことに気づき、このブログを書き始める前から数冊の関連本を読み継いできた。
そこで、本書のタイトルを見たとき、また違った視点で理解を深めることができることを期待して読んでみることにした。
このブログ記事にアクセスしていただいた貴方は、以下の質問に答えられますか?
Q1.「花街」という語句をどう読みますか?
Q2.五花街とはどの地域のことを言いますか?
Q3.花街の恒例の春の舞踊公演が何時から始まったか、ご存知ですか?
Q5.秋の舞踊公演をご存知ですか?
Q6.花街で行われる年中行事にどのようなものがあるか、ご存知ですか?
Q7.京の舞妓・芸妓の数がほぼどれくらいか、またその人数の変遷をご存知ですか?
Q8.舞妓・芸妓が身につける「芸」にはどのような種類がありますか?
それはどのようにして修得されるのか、ご存知ですか?
Q9.歌舞練場と呼ばれる建物が何か?どこにあるか?どんな構造か? 知ってます?
Q10.一例ですが、次の言葉の意味がわかりますか?
仕込みさん、見習さん、店出し、衿替え、引祝、一見さんお断り、節分・お化け
梅花祭、大石忌、かにかく祭、総見、おことうさん、花かんざし、男衆 etc.
答えられない人は、拙文をきっかけに、本書をお読みいただくとよいでしょう。
本書は一般観光ガイドブックの類いではない。「はじめに」に記されていることをまず引用しよう。「花街が衣・食・住にわたるあらゆる伝統的な文化・芸術を包括しているにもかかわらず、学問的な立場からの資料収集や分析がほとんどなされていないことに気づいた。そこで、同じような問題意識をもち、何かはじめられないであろうかとの思いを共有した社会学・建築学・民俗学・歴史学・表象文化論・食文化など、さまざまなジャンルの若手研究者たちが集まり『花街文化研究会』を立ち上げ、2007年12月に『花街文化シンポジウム-上七軒の現在とこれから』を開催した。」つまり、このときのシンポジウムの内容を基盤として、本書が発刊されている。学問的な視点に立ち、様々な切り口から論じられているので、本格的かつ具体的な花街総論である。本書の第3部にこう記されている。
「とにかく、まずは等身大の花街に触れ、あなた自身で考えてほしい。日本の財産として皆で負担してでも残すべきものはあるか、それは何か。逆に花街が変わるべきことはあるか。それは何か」(p190)
「花街をどうするかということは、実は日本の伝統文化・芸能をどうするかという問題でもあるのだ。」(p191)
様々な角度から、あなた自身が見聞し体験し考えるためのフレームワークをしっかりと与えてくれる書といえる。
本書はタイトルの副題にある「ひと・わざ・まち」というキーワードで3部構成になっている。
ひと 第1章 花街は今 第2章 花街の歴史 第3章 花街の誕生と五花街の成立
ここでは、花街を歴史的視点と現状の二側面から説明している。
Q1,Q2,Q3,Q7あたりの答えが具体的に語られている。
わざ 第4章 花街の年中行事 第5章 伝統芸能文化と花街
第6章 花街を支えるモノとわざ
見出しから推測できると思うが、Q3,Q5,Q8,Q10などの観点が具体的に点描される。
花街の1年間の伝統的活動状況かがよくわかる。5花街の特徴と差異が論じられる。
芸妓・舞妓が「芸」を身につける稽古のプロセス、「芸」の持つ意味が語られる。
第6章で解説される花街の「よそおい」と花街にみる食文化は観光視点でも必読だ。
まち 第7章 花街の建築 第9章 花街の町並保存
第9章 花街はなぜ生きつづけているのか-京都の文化創生と花街
第7章の具体的な説明は、花街を散策しウォッチングする際に+αの情報となる。
第8章は祇園町南側の町並み保存で変貌した外観と町並みの維持努力がよくわかる。
まずこの書を通読してから、祇園界隈、八坂神社、宮川町、先斗町あたりを観光し、散策するならば、見る目が変化し、見方に奥行きが加わることは間違いがない。偶然にもホンモノの舞妓さんや芸妓さんに出会うことができたら、その姿・よそおいについて見る視点が変わるにちがいない。「ワァ! キレイ」という感歎レベルから一歩も二歩も抜け出せるだろう。
北野天満宮と上七軒の歴史的関係や上七軒の記述箇所を読んで、北野天満宮界隈を歩けば、きっと面白さが加わるに違いない。補足的に、島原についても然りである。
本書を読み、島原が五花街(祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町・上七軒)とは異なり「花街」分類に現在入っていない理由を遅まきながら初めて知った。直接の原因は、「1980年に六花街から脱退した理由は、地方(じかた)・立方(たちかた)の芸妓の人数不足」(p71)したこと。1989年に芸妓がいなくなったという。島原にお茶屋さんが4軒あるそうだが、現在唯一営業しているのは「輪違屋(わちがいや)」だけで、島原太夫の伝統の側面を維持されている。有名な「角屋」はおもてなしの博物館として存続している。「輪違屋」当主・高橋利樹氏のコラム記事が興味深い。また、「六条三筋町」時代の灰屋紹益と吉野太夫のロマンスは知識として知っていたが、知恩院門跡・良純法親王と八千代太夫の大恋愛ということは本書の記述で初めて知った。p54にある「島原」の地名の由来説明がおもしろい。
本書では「花街」を「明治以降、多人数を対象に芸妓などが歌舞音曲を披露する場である『歌舞練場』を中心にして、置屋の機能を併せ持つお茶屋が集合した地域」と定義している。(p45)
一方で、「花街という言葉」の歴史的考証が為されていて興味深い。(p72-74)
本書で認識を新たにしたことや初めて知ったことが幾つもあるが、特に印象深いことをいくつか覚書として要約し、ご紹介しておこう。
1.戦前の京都では「廓(くるわ)」ということばを使用したが、昭和20年代後半より「花街(かがい)」という語を使用し始めた。東京では戦後から「花街(はなまち)」と称した。
2.政治都市・平安京には花街に類いする街区の記述はない。朝廷の公式の宴席には内教坊より女官たち(舞姫など)が派遣された。室町期の「水茶屋」の発生が街区形成の淵源。
3.祇園(甲部および東)と上七軒の提灯の紋「つなぎ団子」は、お茶屋が門前の茶店から発生していることを端的に示す。茶立て女が後世の「芸子」(芸妓)のはじまり。
4.文献上で芸妓の出現時期の決め手はない。一方で、「舞子」(舞姫)のうちから義太夫などの芸能を身につけた「芸舞子」が生まれ、1751年に至り、「芸妓」という呼び名を得たものと考えるべきであろう。
5.1872(明治5)年の京都博覧会の附博覧として第1回「都をどり」が誕生したことは知っていたが、この折りに客のための茶席が設けられ、「立礼(りゅうれい)式の茶席」が始まったというのは知らなかった。「立礼棚は、裏千家11代玄々斎(1810-77年)が洋風スタイルの生活に合うよう、かねてから温めていたアイデアであったが、博覧会を機に数寄屋師の木村清兵衛につくらせ、円椅(えんき)に腰掛けて手前できるようにしたものである」(p125)
6.「都をどり」の鑑賞で、祇園甲部の歌舞練場の内部や庭などは何度も訪れ、舞台棟の廊下経由で八坂技芸学校の裏手に出る通路を利用させてもらった経験がある。しかし、他の歌舞練場はそれぞれ傍を通り外観を知るものの内部の構造は知らなかった。第7章で各歌舞練場の沿革や内部の説明を読み、それぞれに特徴があることを知り一層興味が深まった。舞踊公演の機会にでも訪れてみたくなった。
この他にも興味深い記述がいろいろある。多角的な視点で論じられているので人により楽しめる箇所が異なることだろう。
最後にこんな指摘がある点を、引用してご紹介しておきたい。
*花街の「おどり」は、単なるショーではない。「おどり」を見る客が、単に鑑賞者ではなく、半ば参加者であるということが大事な点である。・・・いわば「座」のような共同体として存在しているのである。 p115
*日本舞踊も直接的には歌舞伎から生まれ分かれたものである。現在、歌舞伎俳優が日本舞踊の家元を兼ねている例もあり、その歴史を物語っている。 p116
*芸妓舞妓はなぜ白塗りなのかと聞かれることがあるが、「昔の照明は蝋燭だったから」というのが一般的な答えである。 p145
*結局のところ、京都の気風というのは、美しい自然と荘厳な寺社、長年にわたって受け継がれてきた芸術文化や工芸の伝統など連綿と続く部分と、都として政治や経済、生活など浮き沈みのはげしさを、目の当たりにしてきた部分とからつくられている。 p222
*京都という土地柄は、自分たちが大切と評価したことは一時的な流行や「よそさん」の価値観には左右されない風土なのである。・・・そして、それを補足長く続けていくところに京都の良さがある。 p232
ご一読ありがとうございます。
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少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
おおきに財団 Website (公財)京都伝統技芸振興財団
都をどり公式ウェブサイト
宮川町 舞妓さんいあえるまち ホームページ
先斗町鴨川をどり ホームページ
上七軒歌舞会 ホームページ
祇園東歌舞会 ホームページ
五花街合同公演 :「おおきに財団」
弥栄会館 ギオンコーナー オフィシャルサイト
北座ぎをん思いで博物館(北座ぎをんギャラリー) :「京都観光Navi」
歌舞練場 :ウィキペディア
芸舞妓、撮っておくれやす おおきに財団、京都で撮影会
2015.10.06 :「京都新聞」
4都市の花街、豪華舞台 おおきに財団20年公演
2016.1.16 :「京都新聞」
五花街は永遠…「今後も世界に伝統技芸を発信」 京都・おおきに財団が20周年記念式典 2016.1.16 :「産経WEST」
伝統伎芸保持者に芸妓3人認定 おおきに財団 2016.6.8 :「朝日新聞DIGITAL」
おちょぼ 第50話 お茶屋のメンバーになるのも大変 :「さらだ館」
第4回 京都・島原三百余年 花柳界の旅路「輪違屋」の"日常 :「YAMAHA」
京島原・輪違屋の夕べ :「幕末ぶらりんこ04」
角屋(すみや)保存会 ホームページ
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
このブログを書き始めた以降に、読後印象記を載せています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『京都花街 舞妓と芸妓のうちあけ話』 相原恭子 淡交社
しかし、「京の花街」の実態はほとんど知らないことに気づき、このブログを書き始める前から数冊の関連本を読み継いできた。
そこで、本書のタイトルを見たとき、また違った視点で理解を深めることができることを期待して読んでみることにした。
このブログ記事にアクセスしていただいた貴方は、以下の質問に答えられますか?
Q1.「花街」という語句をどう読みますか?
Q2.五花街とはどの地域のことを言いますか?
Q3.花街の恒例の春の舞踊公演が何時から始まったか、ご存知ですか?
Q5.秋の舞踊公演をご存知ですか?
Q6.花街で行われる年中行事にどのようなものがあるか、ご存知ですか?
Q7.京の舞妓・芸妓の数がほぼどれくらいか、またその人数の変遷をご存知ですか?
Q8.舞妓・芸妓が身につける「芸」にはどのような種類がありますか?
それはどのようにして修得されるのか、ご存知ですか?
Q9.歌舞練場と呼ばれる建物が何か?どこにあるか?どんな構造か? 知ってます?
Q10.一例ですが、次の言葉の意味がわかりますか?
仕込みさん、見習さん、店出し、衿替え、引祝、一見さんお断り、節分・お化け
梅花祭、大石忌、かにかく祭、総見、おことうさん、花かんざし、男衆 etc.
答えられない人は、拙文をきっかけに、本書をお読みいただくとよいでしょう。
本書は一般観光ガイドブックの類いではない。「はじめに」に記されていることをまず引用しよう。「花街が衣・食・住にわたるあらゆる伝統的な文化・芸術を包括しているにもかかわらず、学問的な立場からの資料収集や分析がほとんどなされていないことに気づいた。そこで、同じような問題意識をもち、何かはじめられないであろうかとの思いを共有した社会学・建築学・民俗学・歴史学・表象文化論・食文化など、さまざまなジャンルの若手研究者たちが集まり『花街文化研究会』を立ち上げ、2007年12月に『花街文化シンポジウム-上七軒の現在とこれから』を開催した。」つまり、このときのシンポジウムの内容を基盤として、本書が発刊されている。学問的な視点に立ち、様々な切り口から論じられているので、本格的かつ具体的な花街総論である。本書の第3部にこう記されている。
「とにかく、まずは等身大の花街に触れ、あなた自身で考えてほしい。日本の財産として皆で負担してでも残すべきものはあるか、それは何か。逆に花街が変わるべきことはあるか。それは何か」(p190)
「花街をどうするかということは、実は日本の伝統文化・芸能をどうするかという問題でもあるのだ。」(p191)
様々な角度から、あなた自身が見聞し体験し考えるためのフレームワークをしっかりと与えてくれる書といえる。
本書はタイトルの副題にある「ひと・わざ・まち」というキーワードで3部構成になっている。
ひと 第1章 花街は今 第2章 花街の歴史 第3章 花街の誕生と五花街の成立
ここでは、花街を歴史的視点と現状の二側面から説明している。
Q1,Q2,Q3,Q7あたりの答えが具体的に語られている。
わざ 第4章 花街の年中行事 第5章 伝統芸能文化と花街
第6章 花街を支えるモノとわざ
見出しから推測できると思うが、Q3,Q5,Q8,Q10などの観点が具体的に点描される。
花街の1年間の伝統的活動状況かがよくわかる。5花街の特徴と差異が論じられる。
芸妓・舞妓が「芸」を身につける稽古のプロセス、「芸」の持つ意味が語られる。
第6章で解説される花街の「よそおい」と花街にみる食文化は観光視点でも必読だ。
まち 第7章 花街の建築 第9章 花街の町並保存
第9章 花街はなぜ生きつづけているのか-京都の文化創生と花街
第7章の具体的な説明は、花街を散策しウォッチングする際に+αの情報となる。
第8章は祇園町南側の町並み保存で変貌した外観と町並みの維持努力がよくわかる。
まずこの書を通読してから、祇園界隈、八坂神社、宮川町、先斗町あたりを観光し、散策するならば、見る目が変化し、見方に奥行きが加わることは間違いがない。偶然にもホンモノの舞妓さんや芸妓さんに出会うことができたら、その姿・よそおいについて見る視点が変わるにちがいない。「ワァ! キレイ」という感歎レベルから一歩も二歩も抜け出せるだろう。
北野天満宮と上七軒の歴史的関係や上七軒の記述箇所を読んで、北野天満宮界隈を歩けば、きっと面白さが加わるに違いない。補足的に、島原についても然りである。
本書を読み、島原が五花街(祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町・上七軒)とは異なり「花街」分類に現在入っていない理由を遅まきながら初めて知った。直接の原因は、「1980年に六花街から脱退した理由は、地方(じかた)・立方(たちかた)の芸妓の人数不足」(p71)したこと。1989年に芸妓がいなくなったという。島原にお茶屋さんが4軒あるそうだが、現在唯一営業しているのは「輪違屋(わちがいや)」だけで、島原太夫の伝統の側面を維持されている。有名な「角屋」はおもてなしの博物館として存続している。「輪違屋」当主・高橋利樹氏のコラム記事が興味深い。また、「六条三筋町」時代の灰屋紹益と吉野太夫のロマンスは知識として知っていたが、知恩院門跡・良純法親王と八千代太夫の大恋愛ということは本書の記述で初めて知った。p54にある「島原」の地名の由来説明がおもしろい。
本書では「花街」を「明治以降、多人数を対象に芸妓などが歌舞音曲を披露する場である『歌舞練場』を中心にして、置屋の機能を併せ持つお茶屋が集合した地域」と定義している。(p45)
一方で、「花街という言葉」の歴史的考証が為されていて興味深い。(p72-74)
本書で認識を新たにしたことや初めて知ったことが幾つもあるが、特に印象深いことをいくつか覚書として要約し、ご紹介しておこう。
1.戦前の京都では「廓(くるわ)」ということばを使用したが、昭和20年代後半より「花街(かがい)」という語を使用し始めた。東京では戦後から「花街(はなまち)」と称した。
2.政治都市・平安京には花街に類いする街区の記述はない。朝廷の公式の宴席には内教坊より女官たち(舞姫など)が派遣された。室町期の「水茶屋」の発生が街区形成の淵源。
3.祇園(甲部および東)と上七軒の提灯の紋「つなぎ団子」は、お茶屋が門前の茶店から発生していることを端的に示す。茶立て女が後世の「芸子」(芸妓)のはじまり。
4.文献上で芸妓の出現時期の決め手はない。一方で、「舞子」(舞姫)のうちから義太夫などの芸能を身につけた「芸舞子」が生まれ、1751年に至り、「芸妓」という呼び名を得たものと考えるべきであろう。
5.1872(明治5)年の京都博覧会の附博覧として第1回「都をどり」が誕生したことは知っていたが、この折りに客のための茶席が設けられ、「立礼(りゅうれい)式の茶席」が始まったというのは知らなかった。「立礼棚は、裏千家11代玄々斎(1810-77年)が洋風スタイルの生活に合うよう、かねてから温めていたアイデアであったが、博覧会を機に数寄屋師の木村清兵衛につくらせ、円椅(えんき)に腰掛けて手前できるようにしたものである」(p125)
6.「都をどり」の鑑賞で、祇園甲部の歌舞練場の内部や庭などは何度も訪れ、舞台棟の廊下経由で八坂技芸学校の裏手に出る通路を利用させてもらった経験がある。しかし、他の歌舞練場はそれぞれ傍を通り外観を知るものの内部の構造は知らなかった。第7章で各歌舞練場の沿革や内部の説明を読み、それぞれに特徴があることを知り一層興味が深まった。舞踊公演の機会にでも訪れてみたくなった。
この他にも興味深い記述がいろいろある。多角的な視点で論じられているので人により楽しめる箇所が異なることだろう。
最後にこんな指摘がある点を、引用してご紹介しておきたい。
*花街の「おどり」は、単なるショーではない。「おどり」を見る客が、単に鑑賞者ではなく、半ば参加者であるということが大事な点である。・・・いわば「座」のような共同体として存在しているのである。 p115
*日本舞踊も直接的には歌舞伎から生まれ分かれたものである。現在、歌舞伎俳優が日本舞踊の家元を兼ねている例もあり、その歴史を物語っている。 p116
*芸妓舞妓はなぜ白塗りなのかと聞かれることがあるが、「昔の照明は蝋燭だったから」というのが一般的な答えである。 p145
*結局のところ、京都の気風というのは、美しい自然と荘厳な寺社、長年にわたって受け継がれてきた芸術文化や工芸の伝統など連綿と続く部分と、都として政治や経済、生活など浮き沈みのはげしさを、目の当たりにしてきた部分とからつくられている。 p222
*京都という土地柄は、自分たちが大切と評価したことは一時的な流行や「よそさん」の価値観には左右されない風土なのである。・・・そして、それを補足長く続けていくところに京都の良さがある。 p232
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歌舞練場 :ウィキペディア
芸舞妓、撮っておくれやす おおきに財団、京都で撮影会
2015.10.06 :「京都新聞」
4都市の花街、豪華舞台 おおきに財団20年公演
2016.1.16 :「京都新聞」
五花街は永遠…「今後も世界に伝統技芸を発信」 京都・おおきに財団が20周年記念式典 2016.1.16 :「産経WEST」
伝統伎芸保持者に芸妓3人認定 おおきに財団 2016.6.8 :「朝日新聞DIGITAL」
おちょぼ 第50話 お茶屋のメンバーになるのも大変 :「さらだ館」
第4回 京都・島原三百余年 花柳界の旅路「輪違屋」の"日常 :「YAMAHA」
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