遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『漂砂の塔 THE ISLE OF PLACER』 大沢在昌  集英社

2019-02-26 10:25:13 | レビュー
 警視庁組織犯罪対策第二課に所属する石上が主人公である。彼の祖母がロシア人なので、スラブ人の血がクオーター混じっていて、顔立ちも外見は白人に近い。幼少の頃から祖母よりロシア語を学び、大学では中国語を専攻した。この特異な能力が石上を困難な状況に直面させていく。このストーリーで描かれるのは、石上の一匹狼的行動である。だから次はどうなるか・・・・と、ストーリーの展開に引き込まれて面白い。

 冒頭は、ウラジオストクからハバロフスクまで勢力を広げるロシア人のボリス・コズロフと自称四川省出身で日本で勢力を伸ばす杜(ドウ)との間での本物の金髪女の取引の最終交渉場面から始まる。石上はボリスの通訳として潜入捜査をしていた。だが、最終局面でボリスは携帯の画面を見て、ユーリと称していた石上に後は任せると言い、その場を抜け出てしまう。その後警察が突入してくる。潜入捜査は失敗。なぜか? 警察の突入は石上の回収作戦だった。警察内部から潜入捜査の情報が洩れ池袋の港栄会を経由してボリスに伝わったのだった。石上はボリスから復讐のターゲットにされることになる。

 組対第二課長の稲葉は、回収された石上に特殊な任務を指示する。それがこのストーリーとなる。それは北方領土の領域である歯舞群島の中の春勇留(ハルユリ)島で起こった事件の調査である。春勇留島は納沙布(ノサップ)岬から東北東に40キロの海上にある小島。ロシア名はオロボ島。昭和20年にソ連軍が占領した。その頃はほぼ無人島になっていた島である。大正末期から昭和初期にはコンブ漁が盛んで日本人が多いときで100人近く住んでいたという。4年前まで無人島だったのだが、その島に「オロテック」という合弁会社が操業を始め、約340人が住む島になっていると、稲葉が石上に説明した。
 
 今はロシアが実効支配するこの島の近くの海底で漂砂鉱床が発見され、レアアースの一つネオジウムを含むモナザイトが採堀できるのだ。漂砂鉱床について稲葉は「比較的浅い海底にある、特定の鉱物が集まった地域だ。比重の大きい鉱物が、潮や海流などで分離されて濃縮されたものらしい」と石上に説明した。
 稲葉は石上を春勇留島(オボロ島)に事件調査に行かせるために関係者を呼んでいた。ヨウワ化学工業の開発四課チーフ・安田広喜である。安田が石上に事情を説明する。その要点がこのストーリーの重要な背景となる。

1.ロシアは現在この島を実効支配している。島の近くで漂砂鉱床が発見された。
2.現在生産されているレアアースの90%以上が中国産であり、中国の精練技術が最も進んでいる。
3.モナザイトを採堀しようとすれば、鉱石にレアアースと放射性元素のトリウムが共存している。鉱石から元素を分離した後、トリウムを野積みにすれば環境汚染を引き起こす。このトリウムは原子力発電として利用できる。トリウムを利用してもプルトニウムは作れない。ヨウワ化学は、5年前に高層化しない溶融塩炉で発電するシステムを開発していた。発電量20メガワットだが、この島で必要とする電力は賄える。つまり、放射性元素の処理問題と電力確保の課題がクリアされる。
4.政治的問題が残る。春勇留島(オボロ島)はロシアに実効支配されているが、日本政府はあくまでも日本の領土と認識している。日本企業が合弁に加わることはあくまで民間の経済行為にとどめる。それにより、対中外交でレアアースをカードに使われない保険の一つとする。
5.「オロテック」には、広東省に本社のある電白希土集団という企業が中国から技術提携という条件で合弁に参加している。
6.生産されたレアアースは、日本、ロシア、中国が同等の権利をもつ。

 その結果、島内の住民はほぼオロテックの社員である。三すくみで業務を分担している状況にある。
 領土を主張するロシア:漂砂鉱床からの採掘と運搬、居住施設の運営等 100人
 生産技術の中国:選考、分離、精製のプラントを運営。この区域は独自管理。130人
 エネルギー供給の日本:原子力発電所の運営とその区域の管理 110人
人数もほぼ同じ位であり、三者にとっての独立した共用区域があるが、一方で居住区域も含め業務等は截然とすみ分けができている。島にはロシア国境警備隊の人間が数名駐在するだけであり、警察機能はない。
 この背景情報が最初に書き込まれていく。これを読むだけでストーリーは複雑な展開になりそう、おもしろくなりそうな予感を持つだろう。

 こんな背景の島で日本人の変死が発生した。安田の後任で、発電部門の責任者である中本から安田に送信されてきた画像は、水色のジャンパーを着た上半身、背景が岩山のような屋外のもので、特異なのは両目が抉りとられていて、赤い穴があいているものだった。死体を見つけたのは砂浜を散歩していた中国人。現状、遺体を国境警備隊の管理下に置いているにすぎないという。
 西口はオロテックに出向してまだひと月足らずの状況で、変死体となって発見された。日本人出向者の間では、第二、第三の犠牲者が出ないか動揺しているという。出向者に如何に安心感を与えるかが喫緊の課題となっている。

 出向日本人社員たちにとり、現役警察官が島に行くこと自体が重要なことである。だが、日本の警察官が島で捜査活動をすることは、現状では国際問題になりかねない。勿論、殺人犯を見つけたとしても逮捕権はない。石上は、形式上ヨウカ化学の社員ということで島に赴くという苦況に投げ込まれる羽目になる。安田は出向社員には刑事さんが行くと周知し、安心感を与えたいと言う。稲葉課長は、石上にとりあえず三ヵ月間と期限を告げる。さらに稲葉は石上に言う。ボリス・コズロフは既に日本を脱出し、「スーカ(メス犬=警察の犬)を殺せ」と言い残したと。ボリスが行くことのない島への「三ヵ月の転地療法だ」とも気楽に言う。
 石上は、名目上は出向社員として赴き、西口変死の事実を確認し、その犯人を何の権限もバックアップもないままに「調査」しなければ成らないという窮地に立たされる。

 このストーリーが面白くなるのは、石上が日本から送り込まれた警察官だということをロシアと中国の主要な人間は予測していることである。勿論、島に到着した後、日本人の出向社員の前で、最初に警察官であることを明らかにし、調査への協力を依頼する。そして、責任者の中本を筆頭にして聞き込み調査を開始する。
 この島でのオロテックの最高責任者バキージンは石上が警察官であることは知っていた。石上に調べてわかったことは全て報告して欲しいと要求する。全てを知ることが己の責任だという。勿論、石上は了解するしかない。バキージンの協力は不可欠だからだ。バキージンは元KGBだった。
 診療所の女医・プラノーヴァ医師からは西口の死因を確認することから始めていく。このプラノーヴァとの関わりは徐々に深まっていく。この女医もまた、単なる医師ではなかった。別の顔を持っていた。
 一方、流暢に日本語を話すヤンという中国人が、共用区域にある食堂「フジリスタラーン」で自ら石上に話しかけてくる。彼の部下のウーが西口を「ビーチ」と称されている砂浜で発見したのだと。ヤンはプラントの警備面での責任者だった。そして、彼もまたもうひとつの顔を持っていた。

 聞き込み調査を進めていくことで、石上は少しずつ状況を把握し、推理を広げて行く。
 西口の祖先がかつてこの島に住んでいたことがあり、この島のことを少し聞かされていたことを知る。自ら希望して出向社員になり、島のことを調べていたという。その理由が単なるルーツさがしなのかどうかは不詳だが、糸口ができる。
 島が無人島になる以前、日本人が住んでいた頃、事件が発生していた。日本ではほとんど知られていないが、この周辺地域のロシア人の間では、ある伝説が伝わっていた。
 一旦、無人島になったあと、ソ連軍が占拠し軍事施設を運営していた。その頃ここに収容所もあったという。後に軍関係者はこの島から撤退する。
 オロテックがこの島で操業を始める前に、かつての日本人たちの住居跡や墓場などほぼすべてが破壊され、更地にされたうえで、現在の施設が作られたのだ。

 バキージンは当初単独で調査する石上の能力を軽んじていたのだが、石上は聞き込み調査を広げるに従って、日本・ロシア・中国の三すくみの状況と間隙を逆に利用しつつ、西口殺害の真相に迫っていく。
 
 島の共用施設区域には食堂やバーなどの遊興施設がある。そこを支配しているギルシュに石上は当初脅かされる。だが、あることを契機として二人の関係が変化し深まっていく。

 石上にとって、調査が進み始めた段階で、なんと大敵のボリスがこの島に上陸してくるのだ。石上が居るとは知らずに、別の目的でこの島にきたのだが、勿論石上と出会った段階で、めす犬は殺すと宣告する。石上はまさに窮地に立たされる。

 石上と関わる周囲の人間との関係が二転三転しながら、このストーリーが展開していく。そこが読ませどころである。ここに登場する主要な人々は表向きの顔の他に、もう一つの顔を持っている。それ故に、その人間関係が複雑な関わり合いになっていく。そこに生じる駆け引きの面白さが縦横に織り込まれている。
 確保したい事項あるいは守りたい秘密が人により異なっている。それが関係性を複雑にしていくというストーリーの構想が面白い。
 殺された西口にもこの島に執着する秘密があったのだと、石上は推測する。

 現状において日本はこの島での警察権を持たない。銃撃戦の後の帰国後、石上は稲葉の質問に対して事実を語る過程で、ある事実だけを歪曲する選択をした。いわば、死人に口なしであり、かつ日本の警察権の及ばない故にではあるが・・・・・。
 
 この作品はフィクションではある。しかし、時の流れの累積と時代状況・文明が発展変化してきた中で、意外と北方領土問題の根底に横たわる重要な側面を示唆しているのかもしれない。公開され知らされている事実と知らされていない事実の存在・・・・・・。一般国民は蚊帳の外、という風に。あるいは、伝説化された情報の存在。
 ふと、追加的にそんな連想も読後印象として持った。

 いずれにしても、読者をあちらこちらに引きまわしながら、楽しませてくれる作品である。
 
 ご一読ありがとうございます。
 
この作品からの関心の広がりで、ネット検索したものを一覧にしておきたい。
漂砂鉱床   :「コトバンク」
海浜性漂砂鉱床  :「TrekGEO 自然を歩こう」
レアアース  :「コトバンク」
希土類元素  :ウィキペディア 
世界のレアアース生産量 国別ランキング・推移 :「GROBAL NOTE」
モナザイト  :「コトバンク」
自然放射性物質による被ばく(モナザイトに着目して) :「安全安心科学アカデミー」
ネオジム  :ウィキペディア
溶融塩原子炉 :ウィキペディア
トリウム熔融塩炉は未来の原発か?  :「WIRED」 
活気づく「溶融塩炉」の開発 高木直行(東京都市大学 大学院共同原子力専攻主任教授)2018.3.22  :「日本エネルギー会議」
北方領土問題 :ウィキペディア
北方領土の姿  :「内閣府」
北方領土の大きさ  :「北海道 標津町」
北方領土交渉特集  :「朝日新聞DIGITAL」
 
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

徒然にこの作家の作品を読み継いできました。ここで印象記を書き始めた以降の作品は次の通りです。こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『欧亞純白 ユーラシアホワイト』 大沢在昌  集英社文庫
『鮫言』  集英社
『爆身』  徳間書店
『極悪専用』  徳間書店
『夜明けまで眠らない』  双葉社
『十字架の王女 特殊捜査班カルテット3』 角川文庫
『ブラックチェンバー』 角川文庫
『カルテット4 解放者(リベレイター)』 角川書店
『カルテット3 指揮官』 角川書店
『生贄のマチ 特殊捜査班カルテット』 角川文庫
『撃つ薔薇 AD2023 涼子』 光文社文庫
『海と月の迷路』  毎日新聞社
『獣眼』  徳間書店
『雨の狩人』  幻冬舎


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