遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『プラチナデータ』  東野圭吾  幻冬舎

2016-03-26 17:31:40 | レビュー
 かなり異色で特異な設定の状況で発生した密室殺人事件の解明がテーマとなっている。その構成は実に巧妙である。こういう設定状況自体の発現可能性はほとんど無いのではないか。一方で、ここに組み込まれた巨大な情報処理システム自体は近未来において実現する可能性がないとはいえない。高度監視・管理社会の成立する可能性は十分に予測できる範囲にあるだろう。そんな気にさせる視点が含まれている。

 まず異色な設定から入ろう。有明に「警察庁東京倉庫」と表示する建物が倉庫群の一隅にある。そこは「警察庁特殊解析研究所」が使っている秘密の建物。所長は志賀孝志という。志賀所長の下で実質的にシステムの開発を推進しているのは主任解析員の肩書をもつ神楽龍平である。
 この特殊解析研究所が開発しているのは遺伝子情報の分析によるDNAプロファイリングのシステムであり、DNA捜査システムの開発、確立と実用化を目的としている。犯罪捜査にDNA情報が利用できるようにするためには、勿論個人情報の取扱いに関して法律の裏付けがいる。法律が制定される前提のもとに、このDNA捜査システムがほぼ完成しかけているという設定である。一方で、密かに開発されてきたこのシステムが警察庁、警視庁で利用できるための動きが進められている。
 国会に、犯罪防止を目的とした個人情報の取扱に関する法案-通称DNA法案-が提出されたのだ。それは、本人の同意を得て採取したDNA情報を、国の監視の下、捜査機関が必要に応じて利用できるようにする法律である。野党にも根回しができていて、法案が成立する可能性が高まっているのだ。
 受刑者のDNA情報だけでなく、国民のDNA情報が警察の捜査に利用できる情報に加われば、DNAの類似性の絞り込みから犯罪者の絞り込み、プロファイリングが格段に正確度を増すのである。ピンポイントに近い形で容疑者の想定が可能になってくるのだ。
 特殊解析研究所は既にこのDNA捜査システムの実用実験に着手し始めた段階にきている。

 近年DNAについての研究が急速に進展して、その解明が進んでいる。一方でコンピュータの技術的進歩も著しい。つまり、この小説のモチーフにあるDNAプロファイリングとDNA捜査システムは、あながち絵空事といえないもの、近未来に実現可能なものかもしれないという恐ろしさがまずこの小説のベースになっていると思う。

 特異な設定は複数ある。その一つが主任解析員の神楽龍平が二重人格者だという設定にある。神楽龍平は自分が二重人格であることを自覚し認識しているが、それが病的次元の問題だとは判断していない。神楽龍平は、新世紀大学病院の脳神経科の病棟にある「精神分析研究室」の水上洋次郎教授の診察を受けている。しかし、その受診行為は、神楽龍平の二重人格を素材にして、共同研究に取り組む一環なのだというスタンスである。
 神楽龍平が水上教授の診察を受けて、この病院の一室に留まる間は、リョウと呼ぶ別人格として一時的に存在するのである。水上教授は龍平がリョウとなるプロセスにおける二重人格の問題を研究し、龍平を治療している立場である。神楽が二重人格者であることを志賀所長も知っている。

 特異な設定の2つめは、DNA捜査システムの開発の主力は天才的数学者でありプログラマーである蓼科早樹(たてしなさき)とその兄蓼科耕作という兄弟の設定にある。蓼科早樹は、数学の領域においてその才能を世界の学者も認める存在なのだが、重度の精神疾患を持つ患者として新世紀大学病院にVIP待遇でずっと入院している。兄の耕作は妹の世話をするために、この病院で一緒に生活している。蓼科早樹は入院生活を送りながら、さらにシステムの開発、プログラミングを行っている。いわば、世間と隔離された環境でDNA捜査システムの完成に力を注いでいる中心人物である。

 これらの設定を前提として、警視庁捜査1課の浅間玲司刑事か相棒の戸倉刑事とともに冒頭の殺人現場の検分シーンから登場する。現場は渋谷のはずれにあるラブホテルの一室で起こっていた。それは『電トリ』という脳刺激装置を使ったセックスプレイの上での殺人事件だった。電トリとは電気トリップの略で、両耳に電極を取り付けて電源を入れると、微弱なパルス電流が脳内に流れ、薬物摂取とは違った刺激が味わえるという。現場で発見されたのは被害者のものではない毛が3本だけ。そのうちの陰毛1本を浅間はまず那須課長の指示として警視庁に即座に持ち帰ることになる。そして、極秘任務だと指示されその陰毛を「警察庁東京倉庫」に直接持参せよと命じられる。
 その陰毛がDNA捜査システムの一つの実用実験に利用される。
 ここから、現場の刑事として、DNA捜査システムの実用実験での先兵として組み込まれていく羽目になる。浅間はシステム活用の経緯をまず実体験させられる。そして浅間は徐々に志賀所長や神楽龍平と関係を深めていく。
 浅間が持ち込んだ陰毛のDNAプロファイリングから、容疑者は容易に判明し、このDNA捜査システムが威力を発揮し始める。
 
 そんな矢先に、千住新橋そばの堤で若い女性の死体が発見される。頭を口径の小さな銃で撃ち抜かれ、暴行された形跡があり、体内には精液が残されていた。一方、この事件の5日前に、同様の手口で八王子において女子高生が殺されるという殺人事件が発生していた。両事件で採取された精液を解析した結果は一致していた。当然ながら、この千住新橋そばでの事件の残留物である精液は、DNA捜査システムのサンプル対象となった。
 DNAプロファイリングはある程度まではできたが、現段階でのDNAデータベースでは、高い一致率を示すDNAデータは見つけられなかった。そのため、この事件のサンプルは「NF13」として登録されるに至る。つまり、容疑者を示せない13件目になるという。13件中8件はDNAデータの増加で解決済みだという。正体が判明しないものがNF13を含め4件残るのだという。この原因は、システムに必要なデータの不足が原因なのか、それともシステム自体に未だ欠陥が存在するためなのか?

 その最中、神楽龍平は新世紀大学病院に赴き、水上教授の診察を受ける。龍平の言う研究の実施日である。リョウという別人格を発現させ、病院の脳神経科病棟5階に設定された部屋に籠もるのだ。だが、その日、脳神経科病棟最上階(6階)で蓼科兄弟が拳銃で撃たれて殺害されてしまう。神楽龍平は、自分と水上教授との共同研究を始める前に、蓼科耕作と面談し、耕作からNF13に関連して複雑な内容のことがあり、後で話をしたいと言われていた。だが、その前に、兄弟は何者かにより射殺されてしまった。

 殺人現場で1本の毛が見つかる。その解析は神楽龍平に託される。そして、その分析結果を見て、龍平は愕然とする。DNAプロファイリングが描き出した肖像は、龍平に類似した容貌だったのだ!
 龍平に潜むリョウと称した人格が犯人なのか? 龍平が何者かに嵌められたのか?
 DNA捜査システムの開発に心血を注ぎ推進してきた神楽が、そのシステム開発の根幹にいる開発者の蓼科兄弟を殺害する動機は論理的にもない。神楽龍平は、短時間でこの殺人事件の犯人を自ら解明する必要に迫られる。
 
 一方、NF13として登録という結果に陥った事件を、浅間は従来の捜査活動を展開しようとする。だが、なぜかその捜査から外されていく。そして、極秘捜査としてこの蓼科兄弟殺人事件の犯人捜査を現場で行う先兵として行動するよう命令を受けることになる。外見上は、DNA捜査システムと絡んでくるこの殺人事件は極秘に捜査せざるを得ないという判断なのだ。

 ここから実質的な一種の密室殺人事件の謎解きストーリーが始まって行く。神楽龍平と浅間とが別々の立場から同時並行に取り組んでいくことになる。

 犯罪捜査機関の最頂点にある警察庁の下で極秘に開発されてきたDNA捜査システムなので、その存在を知る関係者はごく限定されている。
 蓼科兄弟がVIP扱いで入院する脳神経科病棟の最上階は蓼科兄弟が占有していて、彼らの病室に入るには静脈認証のシステムを使わなければ入室不可能であり、また病棟の警備室では24時間体制で病棟全体の監視システムが作動し、常時監視する警備員がいる。つまり、最上階自体が密室的環境にある。そこで事件が発生した。なお、殺人事件が起こる直前に1台のモニターがしばらく障害を起こしていた事実はあった。そのため確認作業をしたのがその日勤務していた警備員の富山だった。浅間は捜査の過程で富山との接触を深め、富山を信頼できる人間と評価し彼の助力を得て捜査を続行する。
 蓼科兄弟の射殺に使われた拳銃は、分析の結果、NF13の事件で使用された拳銃と同一であることが判明する。
 蓼科兄弟は開発中のプログラムに関連してアメリカの数学研究者とインターネットのメールによる意見交換をしていた。その中で、「モーグル」というプログラムの開発を完成させたと伝えていたという。神楽龍平は、DNA捜査システムを学ぶためにアメリカから派遣されてきている白鳥里沙からこのことを聞く。

 二重人格者の神楽が己の無実を証明するために事件の解明に行動することが、神楽の考え及ばなかった局面を明らかにしていく。そこに、この小説のタイトル「プラチナデータ」の意味するところが大きく関わって行く。
 人間社会のオペレーションは常に支配・被支配の構図がつきまとう。人間社会という集団システムの限界なのかもしれない。それは高度監視・管理社会になろうと、変わることのない視点だろう。

 この小説は密室殺人事件の謎解きという側面と、現代文明社会の近未来像の中においても多分解決できない問題をつきつけるという側面との二重構造になっていると思う。
 また、特異な二重人格者を主人公にして、その本人に無実の証明のために行動させるという構想も興味深い。併せて、高度なデジタル発想型人間グループの中に、従来型のアナログ発想の刑事・浅間を絡ませていくというところからおもしろい展開が生み出されていく。異質な発想がぶつかるところに面白さが生まれるということなのだろう。
 そして、高度デジタル発想型人間を目指した神楽龍平が、手動ロクロを使って大皿を作るという超アナログな世界に回帰してしまう結末が興味深い。
 なぜ「回帰」なのか? そのこと自体が、神楽龍平の人生観形成に大きく関わっていたことなのだ。本書を開いてその謎部分も解き明かしてみてほしい。

 DNA捜査システム、こんなもの近未来には創造してほしくない。少なくとも我が人生が続く間はない方が人間的な気がする。この小説は、このシステムの設定ということで、楽しめるのだが・・・・・。
 
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この作品からの連想により関心事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。

二重人格  :「コトバンク」
解離性同一性障害  :ウィキペディア
認知度が低い多重人格症の治療体制の整備を  :「黒岩祐治オフィシャルサイト」
多重人格が形成される深層心理とは? :「自由な思考を取り戻せば夢は実現する。」
多重人格を題材とした作品  :ウィキペディア
   多重人格を題材とした小説  :ウィキペディア
精神障害を扱ったテレビドラマ(1990~1999)  :「NAVERまとめ」
精神病質  :ウィキペディア

監視社会  :「コトバンク」
ネット監視社会の本当の「危険」な理由  両角達平氏 :「THE HUFFINGTON POST」
「監視社会」の光と蔭  田端暁生氏  :「NTT日本」
<一般論文> 監視社会 月刊現代7月号 :「江下雅之研究室」
NO!監視  監視社会を拒否する会 ホームページ
監視社会の系譜と消失するプライバシー、ビックブラザーは本当にあなたを見守っている?  :「よなかのはなし」


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『マスカレード・ホテル』 集英社