遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『花や散るらん』 葉室 麟   文藝春秋

2013-02-27 10:47:24 | レビュー
 本書を数ページ読み進み、一種のデジャヴィ感を抱いた。なぜだろう・・・記憶を辿る。そうだ、と思い浮かび印象記を遡って見た。本書は『いのちなりけり』の主人公、雨宮蔵人と咲弥夫妻のその後の人生ということなのだ。前作とは全く独立したパート2と言える。

 さて、この作品のテーマは何か。私は、徳川家の大奥における女の確執が赤穂浪士の討ち入りという帰結に繋がって行くという視点と、そこに、様々な欲望、「しのぶ恋」及び「武士道における義」が絡み合い、交錯していく景色にあると感じた。
 本書は、元禄13年(1700)2月、鞍馬の山裾の村での小事件から始まり、元禄15年12月14日の討ち入りまでの話である。赤穂浪士忠臣蔵異聞ともいえる。なぜ、雨宮蔵人と咲弥が大石内蔵助に関連していくのか、そしてどうなるのか・・・・おもしろい仕上がりとなっている。

 この作品もまた、西行の歌と他数種の和歌が心情表白の軸となって構成されていく。ストーリーに風趣を加えている。著者のこの試みと想像力の羽ばたきを私は好む。

 蔵人と咲弥は2年前に鞍馬の村に住みつき、蔵人は角蔵流雨宮道場という看板をかかげ、一応柔術の道場を開いている。この時点で夫婦は香也という女の子を育てている。だが、実子ではない。蔵人の留守中に訪ねてきた武士夫婦が追っ手に刺殺され、その赤子を蔵人の合意により二人で育て始めたのだ。この香也がキーパーソンの一人になっていく。

 様々な欲望とは?
*徳川綱吉と母・桂昌院: 綱吉は生母桂昌院に生前に従一位の叙位を願う。
 桂昌院は京の八百屋の娘お玉として生まれたという出自。これが因となり朝廷側は生前の叙位を嫌う。何とかしてその要求を先送りしたいのが本音。
*吉良上野介: 桂昌院の従一位叙位の獲得のために徳川方交渉人として活躍する。
 速やかに叙位を得させれば、交渉人としての功績が認められ、栄達の道が広がる。
 そのための手段として、神尾与右衛門(上野介の家来)を京に送り込み、この人物を介して貧窮する公家に金を融通するという絡め手戦術をとる。
*尾形光琳: 京第一の評判の絵師だが、法橋の地位を得んがために、近衛家との関係から一役買う形になっていく。公家の借金問題に関わって行く。それがさらに展開する。
*柳沢保明: 綱吉の側用人。桂昌院の従一位叙位の獲得を推進する立場。速やかにできると、自らの栄達の糧になる。吉良上野介とは、ある意味ライバルであり協力関係でもある。保明は、公家の正親町権大納言実豊の娘・辯子(なかこ)を側室に迎える。辯子の母は元遊女だった。辯子は側室となったあと、町子と改名する。
*信子とお伝の方の確執
 信子は綱吉の正室。将軍御台所。京より江戸に下向した。鷹司左大臣教平の娘。
 お伝の方は、桂昌院付奥女中だったが、桂昌院の勧めで側室に。軽格の黒鍬者の娘。
 幕府は公家から来嫁の正室が将軍の子を産むことを好まない、正室とは名ばかりの存在でありつづける。一方、お伝の方は桂昌院の念願通り、将軍の子を産み、威勢を増す。
 信子は京から才色兼備の女性、水無瀬中納言氏信の娘、常磐井を呼び寄せる。この常磐井が右衛門佐と名のり、大奥差配のトップに立つ。信子の参謀として画策し、桂昌院・お伝の方への報復の企みの先鋒となる。そして、淺野長矩が勅使饗応役に任ぜられるということに波紋を広げて行くのだ。

 「しのぶ恋」がやはりこの作品においても底流をなす。
 一人は、洛北・円光寺で修行する禅僧、清源である。かつては肥前鍋島家に仕え、蔵人とは従兄弟の間柄であり、深町右京と名のっていた人物。この作品でも、要のところで登場する。彼のしのぶ恋の思いはかわらない。『いのちなりけり』にその経緯が出てくる。 もう一人は、羽倉斎。京、伏見の稲荷神社の神官の息子である。神道と歌学に親しみ、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などの古典を研究する人物。歌学を学ぶために、中院通茂の邸を訪れていたときに、蔵人と知り合う。なぜ、公家邸に蔵人が居たかは、『いのちなりけり』にある。盗賊対策の警護役として蔵人が一時期、中院邸に務めていたのだ。また、通茂は鍋島家の縁戚であった。咲弥の和歌の素養を知り、慈しむ。咲弥は通茂から和歌の薫陶を受けるという関係にあった。つまり、羽倉斎と雨宮夫妻を結びつける糸がここにある。斎は後に荷田春満と改名する人物だ。国学四大人の一人になる。
 この斎が、仁和寺で桜見物の時に、母親らしき人とナカ樣と呼ばれる少女を見かけ、その話を聞いてしまう。それと気づいたナカ樣が詠んだ歌から二人の出会いが始まる。
   花と聞く誰もさこそはうれしけれ思ひ沈めぬわが心かな
西行のこの歌を聞き、斎はとっさに西行の歌を返すのだ。
   風に散る花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
このナカ樣と呼ばれた少女が、辯子であり、つまり町子なのだ。
斎と辯子の出会いは、わずかの期間で悲しみに変わる。辯子が柳沢保明の側室として江戸に立ったのだ。咲弥の問いに、斎は町子に伝えたい和歌をさりげなく口ずさむ。
   今ぞ知る思ひ出でよと契りしは忘れんとてのなさけなりけり
西行の歌である。この斎が右衛門佐に呼び寄せられ、江戸に出ることになる。そして、右衛門佐が町子に見せる短冊に記したこの和歌が、斎と町子が再び見える契機になる。町子は右衛門佐に、返しの和歌を託す。
   誰を待つ心の花の色ならむ立ち枝ゆかし軒の梅が枝
それは、大奥の確執に二人が巻き込まれていく始まりでもある。そしてさらに雨宮夫妻が関わりを深めていくことにもなる。

 「武士道の義」も、様々な立場の人々の行動の因となっていく。
*淺野内匠頭長矩: 町子を窓口にして、寛永寺貫主・公辯法親王と右衛門佐に会うことになる。そして、吉良の家臣神尾某を討ち、宸襟を安んじ奉れという指示を受ける。勅使饗応役に就く話も右衛門佐から出てくる。師山鹿素行から朝廷尊崇の薫陶を受けた長矩の思いが鍵になっていく。そこに著者の視点が投影されていく。
*堀部安兵衛、奥田孫太夫: 淺野家の家臣であるが、主君長矩の指示に対して存念を表白する。それが、己の武士としての義に繋がっていく。
*大石内蔵助: 赤穂藩国家老としての武士の義の立て方は言うまでもない。だが、その義をどうとらえるか。著者の視点、そしてロマンがある。
*神尾与右衛門: 上野介の手足となって悪業を果たす武士。上野介の正室・富子の実家上杉家から吉良家に移ってきた武士。二人の主に対する義に思い悩む。ここに別の形の義の様相がある。
*雨宮蔵人: 蔵人の胸中にある武士の義とは--以下の引用のなかに挙げておいた。

 なぜ、雨宮夫妻が関わっていくのか。蔵人と咲弥は中院邸に呼ばれる。
 通茂は、咲弥に大奥に入り正室・信子を説得するように依頼する。大奥の女子たちの企みを止めさせたいという意向である。通茂は近衛家の家司・進藤長之は大石内蔵助の親戚筋にあたるのだった。めぐりめぐって、関白にも影響が及ぶ可能性の出来--人の世の柵だ。咲弥はその依頼を受ける。
 一方、蔵人は江戸に出向いた咲弥が三ヵ月過ぎてもなかなか戻らないので、進藤長之を訪ねる。そこで、長之から山科に住む内蔵助を将たる器か見定めて欲しいと依頼される。蔵人が内蔵助の住まいを訪れることから関わりが生まれる。
 そこから最後のステージへとストーリーが展開していくのだ。
 
 大奥に入った日、咲弥は右衛門佐にまず何かの和歌を書けと試される。
   いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん
と短冊に記す。
 これは、能の<熊野>に出てくる和歌だという。この和歌にある末尾の「花や散るらん」から、本書のタイトルが付けられたのだろう。
 しかし、そこには、本書の前段で斎が口にする西行の和歌
   風に散る花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
 さらに、後段で咲弥がふと口にする西行の和歌
   散るとみればまた咲く花のにほひにも後れ先立つためしありけり
が重ねられているように思う。
 そして、武士には武士の花がある。いのちをかけて咲かせる花の意が込められている。
 印象深い文章を引用しておこう。本書のテーマにも深く関係する文である。
・尾形光琳が咲弥の問いに答えた言
「世間の者は仕事の出来栄えよりも、まず格式を重んじます。格式がなかったら仕事ができまへん」(p60)
・大石内蔵助が堀部安兵衛に語る言
「われらは命は捨てるが名は捨てぬぞ。討ち入りの後にこそ、義を立てる戦いが待っているのだ。」(p203)
・咲弥が信子と右衛門佐に語る言
「わたくしの夫は、武士は常におのれを死んだ者と思いすべてを行うべし、と申しております。死者なればこそ、天にかなう道理を行えるのだと」(p207)
・蔵人と与右衛門の対話:蔵人の言
「容易いこと、その主のためなら死んでもよいと思える相手こそわが主じゃ。
 いまのわしにとっては、咲弥と香也が主だということになるのう」(p242)
・清厳と斎の対話:斎の言
「この世で最も美しいものはひとへの思いかもしれませぬな」(p231)

 討ち入りの後、大石内蔵助が上野介に終に対面する。上野介の吐き捨てるような言に対して、筆者は内蔵助にこんな一言を語らせている。
 「・・・・われらも主君にいささか申し上げたきことがござる、追ってお供つかまつろう」この言に、筆者の思いと視点が加わっているように感じる。その意は本書を読んでみていただきたい。

 そして、巻末の一文、蔵人のつぶやきで、感極まる。
 「いのちの花が散っているのだ」

ご一読ありがとうございます。

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歴史上の人物などについて関連事項を少し検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

徳川綱吉 :ウィキペディア
徳川綱吉 五代将軍就任 :「侍庵」

桂昌院  :ウィキペディア
鷹司信子 :ウィキペディア
瑞春院  :ウィキペディア
右衛門佐局:ウィキペディア
正親町町子 :ウィキペディア

吉良義央 :ウィキペディア
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)-不運の吉良家名君-
 :「愛知の郷土史、偉人、祭り・伝統産業」

柳沢保明 ← 柳沢吉保 :ウィキペディア

浅野長矩 :ウィキペディア
梶川日記 :ウィキソース
大石良雄 :ウィキペディア
元禄赤穂事件 :ウィキペディア

中院通茂 :ウィキペディア
進藤長之 :ウィキペディア

荷田春満 :ウィキペディア
荷田春満 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪3」
荷田春満 :「やまとうた」
 本書に出てくる和歌が『春葉集』より抄出の一首として掲載されている。

尾形光琳 :ウィキペディア
尾形光琳 紅白梅図屏風 :「Salvastyle.com」
(国宝)紅白梅図屏風  :「MOA美術館」


インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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徒然に読んできた作品の印象記リストを更新しました。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版


===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版

2013-02-27 10:30:10 | レビュー
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『川あかり』  双葉社

『風の王国 官兵衛異聞』  講談社

『恋しぐれ』  文藝春秋

『橘花抄』   新潮社

『オランダ宿の娘』  早川書房、ハヤカワ文庫

『銀漢の賦』  文藝春秋、 文春文庫

『風渡る』   講談社、 講談社文庫

『いのちなりけり』  文藝春秋、 文春文庫

『蜩の記』  祥伝社

『散り椿』  角川書店

『霖雨』   PHP

『千鳥舞う』 徳間書店