遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『いのちなりけり』 葉室 麟  文藝春秋

2012-02-11 22:35:48 | レビュー
 小説の最後を著者は「忍ぶ恋こそ至極の恋と存じ候」という言葉で締め括る。
 これは常朝の『葉隠』に出てくる言葉だ。この言葉に辿り着き、ああ、この小説は『葉隠』の原像を著者流に描き上げようとしたのだ! とすとんと納得できた。
 本書に、「小小姓の山本市十郎も御歌書役となる」(p56)、「このたび元服いたして権之丞でございます」(p88)、「翌元禄四年三月、山本権之丞は・・・・父親の名を継ぎ、神右衛門と改めている。すでに三十二歳になっていた。」(p177)、そして本書末尾に、「神右衛門は光茂の死後、殉じて剃髪し、山本常朝と名のって金立山の草庵に隠棲した」(p255)と記す。常朝は所々で布石としてその役どころを描かれていたが、常朝の名が出てくるまで、気づかなかった。残念! これは後でウィキペディアを検索してああ、そうだったかと理解したことだ。

 冒頭から、横道にそれたようだ。本書の主人公は雨宮蔵人である。小城藩馬乗士七十石の家の部屋住み。鍋島喜雲が体系化した組み討ちの流派・角蔵流を使うのが取り柄と言われるだけの凡庸な男と人には思われている。目薬の作り方を覚え、それを作り売ることを内職にしている人物だ。父の茂左衛門は十二年前に家中筆頭の天源寺刑部からささいなことで咎めを受け、お役を解かれて蟄居した年に心ノ蔵の病で亡くなっている。
 この蔵人がこともあろうに、刑部に見込まれて入り婿になるのだ。相手は一人娘の咲弥である。だが、この時二十歳だった咲弥は、本藩の書物役に抜擢されることが決まっていた夫・多門の急死の後の喪が明けたばかりだった。天源寺家の跡取が一刻も早く欲しいと父親が押し切って進めたのだ。天源寺家は佐賀藩では特殊な立場の竜造寺家系の家である。嫡子を得ることが必須だった。周りの人々は、蔵人の従兄弟で、祐筆役として出仕していた深町右京の方が似合いではないかと言っていたのだが、刑部は一顧だにしなかった。
 ところがこれが問題の発端になる。蔵人が婿入りし親族の集まりでの披露の後、寝所で二人が会話をする。蔵人は咲弥の名前の謂われを尋ね、その説明を受けて感銘を受けたように頷く。一方、咲弥は前夫多門が学問好きで和歌を嗜み、西行を崇拝していて、「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」の歌を好んだと述べ、「わが夫となる人は風雅を心得たる方こそ」と語る。そして蔵人様の好む和歌を聞きたいと言う。そして「蔵人様がこれぞとお思いの和歌を思い出されるまでは寝所をともにいたしますまい」と告げる。

 だが、本書は蔵人が入り婿となった時から十八年後の元禄七年(1694)十一月二十三日、江戸、小石川の水戸屋敷での騒動から始まる。隠居した水戸光圀が交際のある大名、旗本を招き宴を開き、自ら能「千手」を演じた後で、中老藤井紋太夫を手討ちにするという所業に出る。招かれた客は動転し辞去のためひしめいている中、奥は森閑としているという。この時、天源寺家から複雑な経緯の後、水戸家の奥女中になった咲弥が奥女中取締をしていたのだ。
 翌日、光圀は咲弥の努めを称賛した後、形としては咲弥の夫を呼び寄せると告げる。一方で光圀は小城藩主鍋島元武には、書状で「この際、御家の禍根を断つべし」と伝えるのだ。

 一ヵ月後の年の瀬に、咲弥の許に早飛脚で書状が届く。そこには一行の和歌が記されているのみ。
 「春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことはいのちなりけり」

 この一首、蔵人が古今和歌集から己の思いを伝える歌として選び出したものだった。調べてみると、古今和歌集の97番目の歌で、「題しらず、よみ人しらず」として巻第二春歌下に載っている。本書のタイトルはこの最後の句から付けられたのだろう。

 佐賀藩には、鍋島家と竜造寺家の確執が尾を引いている。鍋島家がもとは竜造寺家の家臣であり、竜造寺隆信の敗死後、秀吉に取り入り嫡男政家を隠居させた。まだ五歳だった竜造寺高房を当主にし、鍋島直茂による家政の二重支配を経て、直茂が肥前国主となったという経緯がある。本書では、その確執が佐賀城内広場での<鎧揃え>の時に、藩主の世子綱茂に矢が射かけられる事件として現れる。そのとき御座所の前に飛び出し、両手を広げて鎧で防ぎ止めたのが蔵人だった。
 参勤交代の供として出府した蔵人は、小城藩世子の鍋島元武から、綱茂に矢を射かけさせたのは刑部だとしてその始末を命じられることになる。一方、従兄弟の右京は、藩主光茂から、御歌書役になり京都役につくようにとの内意を受ける。それは、光茂が古今伝授「御所伝授」を是非受けたいと願っていることによる。三十歳の時に、歌人として名高い中院通茂の門弟になっているのだ。一方で、光茂から別の密命を与えられる。

 鍋島藩は島原の乱の際、鎮定に派遣されたが軍令違反で原城一番乗りを果たした。乱終結後に、抜け駆けを糾問されたとき、水戸家にとりなしてもらったことから、水戸徳川家に出入りするようになっていた。
 この頃、水戸光圀は『大日本史』編纂事業にとりかかっている。一方、江戸幕府は延宝八年(1680)年、四代将軍家綱が病床にあり、世子がなかったため、後継を巡り紛糾していた。京から親王将軍を迎える案もあったが、綱吉を推す老中堀田正俊に光圀も協力して、五代将軍綱吉が誕生する。その正俊の威勢の高まりが嫌われ、城内で刺殺された後、柳沢保明が綱吉側近として暗躍し始める。
 綱吉の出した生類憐れみの令を光圀が批判しおり、施政の邪魔をする者と見なされていく。直接には光圀と保明の確執となっていく。天皇を軸とした日本歴史の編纂を行う光圀と、徳川将軍を機軸にする政治体制を推し進める保明との意識のギャップが問題になっていく。また、鍋島光茂側が公家に接近していることを保明側が都合のよい解釈をし、貶める種として利用しようと画策し始める。

 そういう背景の中で、蔵人の生き様が描かれていく。
 刑部の死に際に関わる蔵人はその直後、一旦石田一鼎のところに身を隠したあと、小城藩を出奔する。蔵人は追われる身になるのだ。形だけの妻、咲弥からは父の敵として、世子元武からは蔵人への指示の密封のため。その他様々な人間関係が複雑に絡んでいく。
 蔵人は一鼎から聞いた熊沢蕃山に岡山で会い、その後京に出る。蕃山に書状を託され、中院通茂に届けるのだが、そこには、蕃山が蔵人を「天下のために用いてほしい」と書かれていたのだ。中院を警護するという蔵人の役割が始まるが、見返りに蔵人の希望したのは、書庫で自由に書見させてもらうことだった。蔵人の思いは、「わが心だと思える和歌」を探すこと。通院に蔵人は恥ずかしげに「さる女人より教えてくれと言われましたゆえ」と言う。

 本書はやはり最後の段階が読ませ所だ。それは、早飛脚からの書状を受け取った蔵人が返書を認めた後、受け取った書状の経緯、意図を知りながら、一途の恋に向かって、江戸へ駆け上っていくプロセスだ。「春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことはいのちなりけり」という歌を、自らの口で咲弥に伝えんがための道のりである。
 それを阻もうとする障害を次々に克服していく姿、そのプロセスにはついつい引き込まれ、感情移入してしまう。寛永寺の桜の真っ盛りのもとで、蔵人が見つけた歌を咲弥に詠じるシーンでは自然と落涙してしまった。

 読後にネット検索していて、次の一文を見つけた。
 正岡正剛氏は、”『葉隠』の最大のキーワードは「忍ぶ恋」だということだったのである”という。そして、常朝の謂う「忍ぶ恋」について、
「常朝は、究極の恋は相手に恋心の負担を感じさせない恋闕の情というものであるということを、何度も何度も強調した。その強調は異常なほどで、そこには人間の哲学の究極のひとつがあるかと思えるほどである。」
と「千夜千冊」第823夜の『葉隠』に書いている。

 冒頭に記したが、本書は『葉隠』を読み込んだ著者が、そこに盛り込まれた精神を本書の形で結実させたのではないか。歴史の断片的な点的史実を背景にして、蔵人と咲弥、また右京という人間を創造し、物語として織り上げていくことを通じて、葉隠精神の原像をそこに仮託したのではないだろうか。本書に散見する、登場人物の以下の発言などは、『葉隠』に繋がっていくような気がする。

*古来、七息思案ということがある。・・・いたずらに迷わず、さわやかに、リンとした気持ちであれば決断は七度息をする間にできるということだ。 p24
*武術など、他人に知らせるものではない、と存じます。 p32
*知行、俸禄をいただいて奉公するのであれば、それは商いと申すものでござる。 p51
*天地の間に満ちているものに奉公すると思えばよろしいのです。・・・天地は命を育むもの、されば命に仕えればようござる。  p52
*一殺多生の大慈悲のため武士は刀を抜きます。 p53
*武士は暮らしのことができるべきだ、と思っていたからだ。 p67
*武士は両刀を携えた時から人を斬ることを覚悟しておるはず。されば、ひとの命を奪うのではなく受けとめる、という覚悟こそ肝要なのではありませんか。 p68
*人はいずれ一度は死ぬものにて候。 p83
*いえ、死ぬるなら、毎朝、死んでおります。 p85
*わたしは毎朝、顔を洗った後、おのれは死んだと思うことにしております。 p85
*大事だ思っている人に会えるとしたら、たとえ仇を討たれるとしても心楽しくなるとは思わぬか。  p104
*「自ら、御手討ちになられるおつもりですか?」「それでなければ、それがしの忠義は果たせません」 p191
*光明であることがわしの忠義であった  p196

 正岡氏が批判している三島由紀夫著『葉隠入門』を読んだ程度なので、的を射ていないところがあるかもしれない。久しぶりに書棚の奥に眠っていた『葉隠入門』をパラパラとめくってみた。

 本書を読んで、おもしろい副産物を得た。TVで馴染みの水戸黄門の家来「助さん、格さん」のモデルとなった人物が、佐々宗淳、通称介三郎及び安積覚、通称覚兵衛といい、共に『大日本史』編纂に関与する学者だったということである。
 
 最後に、本書で私の惹かれる言葉を引用しておきたい。
*つまるところ、雅とはひとの心を慈しむことではあるまいか。 p141
*ひとが生きていくということは何かを捨てていくことではなく、拾い集めていくことではないのか。  p142
*いのちとは、出会い ではなかろうか。 p181


ご一読、ありがとうございます。


付記 ネット検索をしていて、一つ疑問点が残った。
 本書のp178に「このころ<古今伝授>を伝える中院家では鍋島家に伝授することは認めようという気配になっていた。」と著者は記す。本書はあくまでフィクションだろうから、この記述にこだわる必要がないかもしれない。
 だが、これは史実を踏まえているのか、作者の小説世界での付加事項の設定なのか・・・・ <古今伝授>資格者の系統を詳しく知らないので、史実を確かめたい課題が一つできた。
 ウィキペディアの項目では、光茂が<古今伝授>を三条西実教から相承したとされているので、気になった。


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本書に出てくる語句で、関心を抱いたものを本書を読みつつネット検索してみた。
一覧にまとめておきたい。

小城藩 :「江戸三百藩HTML便覧」
佐賀藩 :「江戸三百藩HTML便覧」
鍋島光茂 :ウィキペディア
徳川光圀 :ウィキペディア
酒井 忠清 :ウィキペディア
堀田正俊 :ウィキペディア
越後騒動 :ウィキペディア
柳沢保明 → 柳沢吉保 :ウィキペディア
熊沢蕃山  :ウィキペディア
熊沢蕃山  :「YAMKINへようこそ!」
吉良上野介 ← 吉良義央  :ウィキペディア

円光寺 :ウィキペディア
円光寺 :「ぶらりと京都」
寛永寺 ホームページ
寛永寺 

霊元天皇 :ウィキペディア
古今伝授  :「古今伝授の里Field Museums」
中院 通茂  :ウィキペディア
三条西実枝の古今伝授 :「古今伝授之間」
三条西家   :ウィキペディア
三条西実枝  :ウィキペディア
三条西実条  :ウィキペディア
三条西実教  :ウィキペディア

山本常朝 :ウィキペディア
葉隠   :ウィキペディア
『葉隠』   :松岡正剛の千夜千冊
「葉隠」の説く武士道を考える  :佐藤弘弥氏
小城鍋島文庫 「葉隠」目次  :佐賀大学電子図書館

水戸学  :ウィキペディア
水戸学講座 :常盤神社 水戸黄門ホームページ
大日本史概要  :「きんたろうのホームページ」
彰考館  :ウィキペディア
佐々宗淳 :ウィキペディア
安積澹泊 :ウィキペディア
藤井紋太夫 ← 藤井徳昭 :ウィキペディア

徳川ミュージアム HP
彰考館史料調査  :東京大学


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