遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『乾山晩愁』 葉室 麟  新人物往来社

2011-11-28 01:17:04 | レビュー
 この読後記録を始める前に読んだ『秋月記』から4冊目でこの本を手にした。奥書に「乾山晩愁」で歴史文学賞を平成17年(2005)に受賞と記されていたので、どんな作品か興味が湧いたためだ。手に取る前は勝手に長編だろうと思っていたのだが、本書を開いて、短編であることを知った。

 本書には、受賞作「乾山晩愁」の他に4編の短編-「永徳翔天」「等伯慕影」「雪信花匂」「一蝶幻景」-が載っている。乾山がやきものの世界(晩年は書画が中心だが)であるのに対し、残りの4作は日本画の世界を題材にした短編だ。それも御用絵師・狩野家の歴史に深く関連しているものである。本書を読むと、安土桃山時代から江戸時代の日本画の一つの大きなの流れ、その中での絵師達の確執の一端を感じることができる。各短編について簡単に触れ、感想を述べてみたい。

「乾山晩愁」
 尾形深省(乾山)の54歳から81歳で没する期間を扱った作品。華やかな画才を京、江戸で花開かせて享保元年(1716)6月2日に59歳で兄・光琳が没する。その翌月からの深省の生き方がテーマになっている。深省は義姉多代に呼び出しを受け、光琳の家に行く。そこで引き合わされたのが、江戸から子連れで訪ねてきた親子。光琳が江戸住まいの時に関係した女だという。深省がちえとその子市助の生活が成り立つように世話することを引き受けるところから、話が始まる。華やかで奔放な兄・光琳の生き様、江戸での生活が語られる中に深省の思いが表出され、亡き光琳との関連で深省の生活が影響されていく。光琳を偲ぶ茶会の席で布商人宇津木甚伍が、光琳が赤穂浪士の討ち入りに関わったかもしれないという話をしたことをきっかけに、意外な展開となる。
 70歳になった深省は江戸に行く決心をする。深省は言う。兄は光輝く光琳だが、自分は乾いた山、道を見つけ出すのに時間がかかると。
 江戸で乾山が描いた「花籠図」に対して、甚伍が「いや、ほんまに深省はんは大器晩成でしたな」という。それに深省は答える。「大器晩成やなくて年取ってからは愁いばかりの晩愁や」と。この絵についての甚伍の解釈がおもしろい。そこに筆者の解釈が投影されているのだろう。
 この絵の上に書かれた和歌が本文に出てくる。これは、手許の展覧会図録を読み返すと、室町時代後期の公家・三条西実隆の家集『雪玉集』から引用されたものだという。
 展覧会で見た乾山の諸作品から、今まで愁いの乾山を想像すらしていなかった。著者の描出した晩年の乾山像が、その作品を鑑賞する上で、別の光と影を与えてくれるように思う。

「永徳翔天」
 狩野源四郎(のちの永徳)が、前関白近衛前久の邸に駆けつけようとする場面から始まる。近衛邸を織田勢が破壊するのだ。この邸には源四郎が襖絵や屏風絵を描いて納めたばかりなのだ。「せっかく描いた絵を無茶苦茶にしおって、将軍も阿保やが織田信長も愚かな大名や」と言い放つ。だが、それが織田の小姓万見仙千代との出会いになる。
 天正元年、信長から召し出しを受ける。その年、源四郎三十歳。家督を引き継ぎ永徳と名のっていた。信長との初対面の場には永徳が描いた「洛中洛外図屏風」があった。永徳が安土城を飾る絵を描く道を開くことになる。信長に「天を飛翔する絵」を望まれたのだ。
 信長の死後、永徳は秀吉のために絵を描く。だが、信長が永徳の絵の価値を評価していたのに比べ、秀吉はそうではない。長谷川等伯がそこに登場し、絵師の確執が始まる。狩野の天下を守らねばならぬ永徳。永徳の政治的動きが始まっていく。
 筆者は永徳と絵の目利きだった万見仙千代の出会いを描きたかったのではないかとすら思う。筆者は、永徳に対し「心が、上様とそっくりだと申しているのです」と仙千代に言わせている。
 
 「等伯慕影」
 等伯は江戸に入ってわずか二日を過ごして亡くなる。その場面で等伯が自らの人生を回想する形でストーリーが展開する。40年前に甲斐国甲府に信玄の肖像を描きに行くことが始まりである。この絵が「信玄公寿像」として有名な肖像画だ。その礼として又四郎(のちの等伯)は勝頼から碁石金を賜る。この碁石金から絵師人生が大きく動き出す。甲府からの帰路、人には言えない秘密を抱えることとなるが、念願の京に家族と移り住み、絵師の道を深めるもとでを得たことになる。
 京・堺で絵師としての技術を研鑽して、等伯と称するようになる。千利休との出会いが絵師として一派を確立していくきっかけになる。御用絵師として認められるには、狩野の領域を切り崩していかねばならない。そこに等伯と永徳の確執が始まる。この短編は、等伯の立場からその確執を描いているといえる。
 筆者は千利休を等伯が世に認められる契機を与えた人とし、その利休を踏み台にして絵師としての生き様を貫いていく等伯を描く。息子久蔵の絵師としての成長に期待をかける等伯。だがその久蔵は、等伯自身の過去の行為の因縁に捕らわれていく。
 数々の名作品を残した等伯だが、御用絵師としての立場を確立しようとする彼の執念を筆者は描こうとしていると思う。又四郎の思いを筆者は記す。「わしが道を開いて、この子に継がせるのだ」と。等伯を御用絵師に仕上げた様々な要因・背景の描写に筆者の想像力とロマンを感じる。史実の裏を紡ぎ出すことの面白さだろうか。

「雪信花匂」
 ネット検索してみると、狩野派には60人近い女流画家がいたそうだ。その中の随一の絵師がこの短編の主人公、清原雪信である。
 京、島原の菱屋の宴席で、井原西鶴が島原一と評判の花魁・四代目薫太夫の衣装に魅了される。その宴席に清原雪信も出ていた。その衣装は雪信が描いたものなのだ。西鶴は花魁から女絵師が狩野探幽の姪の娘だと聞かされる。なぜ京に上ってきてそこにいるのか。不思議に思う西鶴が、わけを知る花魁に教えてくれと頼むと、花魁が「恋の話」だと言って、長い話を語り出す。
 承応元年(1652)3月、雪9歳の時に、父・久隅守景に連れられて、初めて雪が狩野探幽に顔みせすることから始まる。探幽邸からの帰り際、門前に立つ十二、三の少年に父が声を掛けることがきっかけとなり、この狩野に入門を希望する平野清三郎を雪は知る。この清三郎との恋の話である。
 雪は17で探幽門下となり、探幽から直接手ほどきを受ける。二十歳のとき、「一字拝領」として探幽の名、守信から信を与えられ雪信と名のる。久隅の本姓の清原と合わせて清原雪信と款記を入れるようになる。そして閨秀画家としての評価を得る。
 どういう風に恋の話が展開するかは読んでいただく方がよい。
 この短編には、2つの隠れたテーマがあるように思う。一つは、狩野派の系譜話である。安土桃山時代を象徴する永徳。江戸幕府の下で御用絵師となっていた狩野三家の系譜とその関係。そして三家の中での永徳の再来といわれた探幽の位置づけとその影響である。雪や守景との関わりの中で、彼等の目に映じた探幽の姿が浮かび上がってくる。
 探幽の内面に狩野派御用絵師の筆頭という自負と制約、狩野派の枠に捕らわれない絵への思いが葛藤しているという筆者の解釈は興味深くておもしろい。史実の捉え方に著者の思いが広がっている。
もう一つは、雪の兄、彦十郎に関わるエピソード話だ。それが結果的に雪と清三郎を結び付けることに関わっていく。彦十郎は、狩野三家の間での確執の影響も受け、不行跡から佐渡送りになる。
 清原雪信という絵師を今まで私は知らなかった。文中にでてくるその父・久隅守景の「夕顔棚納涼図」という絵を見たことがある、ネット検索で確かめてみた。知っている絵の話が出てくると、楽しいものだ。

 「一蝶幻景」
 絵師・多賀朝湖が俳諧師・宝井其角の家を訪ねる途中で蝶の群れを見るという場面から始まる。朝湖は、狩野家の宗家、狩野安信に弟子入りし修業するが、吉原に入り浸り放蕩者となったことで破門された絵師である。其角と友人付き合いをし暁雲の号で作句もする。洒脱で華やかな気質をもつ。画技では安信をしのぐといわれるようになる。狩野派の絵に飽きたらなさを抱く朝湖の数奇な後半生を描く。
 朝湖は遊蕩仲間二人の誘いに乗り、一緒に谷中感応寺で若い僧日珪を通じ、大奥女中・右衛門佐に引き合わされる。その大奥女中は吉原の噂話を聞きたいという。これを契機に大奥における桂昌院派と公家の女派との確執に巻き込まれていく。公家の女派の右衛門佐のために情報を集め、場合によっては画策に手を染めていくのだ。なかなかにおもしろいストーリー展開である。著者は、朝湖を通して、大奥の世界に秘められた政治の暗部と女たちの確執の実態を描くことをサブテーマにしたのではないか。
 洒脱・放蕩・都会派で俳諧を嗜む朝湖が畏敬の念を抱く松尾芭蕉が対極の人間として要所に描かれている。「わたしは、お師匠のように艱難の路を歩むことができません」と朝湖は自嘲する。芭蕉と朝湖のやり取りに、俳諧の世界の奥行きを描きだす。
 この朝湖、表向きは「朝妻舟」の絵をえがいたことが理由でお咎めを受け、三宅島への流人となる。遅れてそこには日珪も流されてくるのだ。
 朝湖は十二年後、島でもうけた二人の男子を伴い江戸に戻る途中、舟中で一匹の蝶を見る。江戸に戻ると、英一蝶と画号を変える。島にいる間に描いた絵は「島一蝶」と呼ばれて人気を集めたという。
 英一蝶という絵師の絵を見た記憶が無い。この短編を読み、美術館や展覧会で、一蝶の絵に直に出会う楽しみができた。清原雪信の絵も同様に・・・

 美術展覧会好きなので、鑑賞後に購入した図録が手許にある。本書を読み、掲載の諸作品を新たな目で見直す機会にもなった。
 2007年10月 「特別展覧会 狩野永徳」(京都国立博物館)
 2008年 3月 「乾山の芸術と光琳」展 (京都展・京都文化博物館)
 2010年 4月 「没後400年 長谷川等伯」展(京都展・京都国立博物館)
 図録 「国宝 上杉本 洛中洛外図屏風」(狩野永徳筆)
 しかし、本書を発刊直後に知って読んでいたら、本書の印象を重ね、ひと味違った眼差しで、それぞれの展覧会の展示作品を鑑賞できていたかもしれない。

 改めていま思う。様々な作品の背景に、絵師の純粋な美の探求心だけでなく画家達の実生活をかけた熾烈な確執・情念が秘められていたということを。

 「永徳翔天」と「等伯慕影」は上記の通り絵師の確執という視点でリンクしている。「乾山晩愁」と「一蝶幻景」は、赤穂浪士討ち入りという視点で、また「雪信花匂」と「一蝶幻景」は雪の兄・彦十郎という点でリンクする部分がある。このあたりに、短編同士が関わり合い、行間の世界を生み出している面白さを感じた。

 蛇足かもしれないが、長谷川等伯については、萩耿介著『松林図屏風』 (日本経済新聞出版社)という長編小説がある。2009年に読んだが、この書も等伯像を考える上でおもしろいと思う。

ご一読、ありがとうございます。

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本書を読みながらまた読後にも、ネット検索を活用した。リストにまとめておきたい。


尾形乾山 :ウィキペデイア

尾形乾山(おがたけんざん)について :法蔵禅寺
法蔵禅寺のホームページには、「乾山関係年表」「乾山関係文献目録」のページもあります。

尾形乾山 略歴と関連美術品 :HIHO MUSEUM
 所蔵作品(38点)の写真及び解説が見られます。

尾形乾山の作品展示美術館

尾形乾山の画像


狩野永徳 :ウィキペディア

狩野派  :ウィキペディア

紙本金地著色洛中洛外図〈狩野永徳筆/八曲屏風〉:文化遺産オンライン

狩野永徳の画像


長谷川等伯 :ウィキペディア

長谷川等伯(信春)とは :石川圏七尾美術館
等伯の生活拠点の時代毎の解説と年表が載っています。

とうはくん公式サイト →とうはくん:長谷川等伯没後400年記念キャラクター
「長谷川等伯について」のページがあります。作品をフルスクリーンにしてスライドショーで見られます。

長谷川等伯 七尾が生んだ桃山美術の画聖 :七尾商工会議所
等伯の一生/等伯の時代/等伯の作品1/等伯の作品2/年表のページがあります。

長谷川等伯の画像


清原雪信・花鳥図屏風 :板橋区立美術館 ねっとび

描く女性たち~女性画家の作品と生き方~ 仲町 啓子
動画 清原雪信が最初に取りあげられています。

清原雪信 蓬莱山図  :古美術太湖

久隅守景  :ウィキペディア

国宝 納涼図屏風 :e国宝
図を拡大しかつ拡大ポイントを移動させることができます。


英一蝶  :ウィキペディア

流人絵師・英一蝶(はなぶさいっちょう) 元禄快男児伝説 :NHK日曜美術館

英一蝶の画像

一蝶リターンズ ~元禄風流子 英一蝶の画業~ :板橋区立美術館
作品リストが載っています。作品3点の画像。

英一蝶 板橋区立美術館 :個人ブログ「すぴか逍遙」
「朝妻舟図」の画像その他5作品が載っています。

俳諧鑑賞あれこれ(三十) :八半亭(YAHANTEI)のブログ
このあたりから、一蝶(俳号・暁雲)のことを触れられていく。



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