遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『初陣 隠蔽捜査3.5』 今野 敏  新潮社

2011-09-10 23:21:56 | レビュー


著者には、警察小説としていくつかのシリーズがあるが、これは『隠蔽捜査』シリーズの系譜だ。著者は1978年に問題小説新人賞を受賞、その後の旺盛な作家活動を経て、2006年に『隠蔽捜査』で吉川英治文学新人賞、2008年に『果断 隠蔽捜査2』で山本周五郎賞・日本推理作家協会賞を受賞した。一定の地歩を築いた上での受賞だ。そして第3作『疑心 隠蔽捜査3』が出版されている。

この『隠蔽捜査』シリーズは、東大卒のキャリアである竜崎伸也という原理原則を信条として思考判断し行動する警察官を主人公としたものだ。一般的な警察官から見れば、かなりの変人とみられるキャラクターが生み出された。だが、原理原則から判断する指示・行動は関係者との間で軋轢を当初に生み出すが、事件解決への統率と捜査活動が的確迅速なものになっていく。
この竜崎の脇役として、警察での同期・伊丹俊太郎が登場している。同じキャリアではあるが私大卒。小学校の同期であった竜崎にいつも一方的に親しみを感じている。伊丹は竜崎を友人視しているが、竜崎は小学生のとき、伊丹とそのグループにいじめの対象にされただけで、別に友人とは思っていない。そのことを伊丹に面と向かって言う。しかし、事件解決の為には、要所要所で協力を密にするという展開がおもしろいところだ。

この『初陣』には、「隠蔽捜査3.5」と副題付いている。なぜか?
この本、竜崎伸也が主人公ではなく、伊丹俊太郎が主人公で事件が展開する。しかし伊丹が竜崎に相談を投げかけたり、今回こそ自分が竜崎を助けられる立場だと思って、竜崎に関わっていくというストーリーである。『隠蔽捜査』の本流からちょっと横道に入ったところで様々な事件が展開しており、それが竜崎に関わるという趣向である。隠蔽捜査のテーマとなる事件発生の間隙に、伊丹の所轄で発生した事件が取り扱われているのだ。

前三作が長編だったのに対し、この「隠蔽捜査3.5」は短編集である。ちょっとした時間の合間に、一篇ずつ読んでいってもおもしろい。7篇が収録されている。タイトルをならべてみると、
  指揮、初陣、休暇、懲戒、病欠、冤罪、試練、静観  となる。

各編の事件はこんなふうである。

指揮  33ページ
伊丹は福島県警本部に赴任し、県警本部の刑事部長を3年間勉めたところで、警視庁の刑事部長に転任の内示を受ける。そして異動の直前に殺人事件が起きる。現場主義の伊丹は捜査本部につめる。正式の着任の3日前に、捜査本部で後任となる東大卒の時任は言う。「私はあなたのやり方を踏襲するつもりはありませんので」「警察幹部は、現場にいる必要はない。それが私の考えです」。3日経っても、容疑者の身柄は拘束されない。時任は県警本部長に着任報告を済ませたという。事件の解決を見届けたいが、宙ぶらりんの立場になったことに気づく。さて、どうするか・・・・伊丹は竜崎に電話をして相談する。原理原則の竜崎は、何も問題ではないと言い、その考えを述べる。どこまで「権限」が認められるのか。

初陣  33ページ
伊丹は福島県警から異動し、警視庁の刑事部長室の主になる。その時点で、他府県において県警裏金事件が二件発生しており、国会の予算委員会で野党がこの問題に質問する予定という状況が生まれていた。伊丹も福島県警時代を振り返ると、捜査資金のプールという行為が行われていた事実を知っていた。私的に裏金を使ったと言う事実は見聞しなかったのだが。
伊丹に、竜崎から電話が入る。伊丹の異動と同時期に、竜崎は長官官房の総務課長に異動していたのだ。県警裏金事件の国会答弁下準備が竜崎の初仕事、初陣なのだという。竜崎は伊丹に問う。「これが、俺の初陣なんだ。協力してくれ」「福島県警時代のことを話してほしい」「・・・・実際に福島県警で、裏金作りが行われていたかどうかの実態が知りたいんだ」身内から斬りつけられた質問だ。伊丹と竜崎の押し問答、そして、伊丹は竜崎に事実を述べるが、そこから伊丹の心中の葛藤が始まる。自分にも飛び火してくるのかと・・・・
その時、綾瀬署管内での殺人事件の報が伝えられる。現場主義の伊丹は、捜査本部に出向こうとする。一方で、警視庁の刑事部で裏金を作っていたということがないか、刑事総務課長に調べるように指示を出す。そして、伊丹にはこの殺人事件が警視庁で現場主義を始める伊丹の初陣になるのだ。
『隠蔽捜査』が長官官房総務課長時代の竜崎を扱った小説なので、その最初の初仕事のエピソードに相当するのが、この初陣だ。

休暇  33ページ
伊丹は群馬の伊香保温泉への二泊三日の旅行を計画し、金・土二日の休暇をとる。妻とはずっと別居状態が続いている伊丹は、一人旅として伊香保温泉に行く。旅行初日の金曜の夜、携帯電話に田端課長から連絡が入る。大森署管内で殺人事件が発生したという。一係の結論は、大森署管内に合同捜査本部を置き、五十人態勢としたい意向。しかし、大森署署長は捜査本部設置はムダだと拒否する。前代未聞のことだ。大森署長はある事件がもとで降格人事を受けた竜崎伸也が署長になっていた。伊丹は直接竜崎と電話で連絡を取る。竜崎は情報の共有さえうまくできれば、合同捜査本部などムダだと主張する。伊丹はそのまま休暇をとっていればいいと。現場主義の伊丹は戸惑う・・・・本庁の立場で合同捜査本部設置を強行すべきかどうか。それは伊丹の常識とは違う。竜崎の原理原則を聞いた後、伊丹自身の中で思考の葛藤が始まる。伊丹の部下は捜査が遅れないよう即刻の指示を望むのだが・・・・
これは、竜崎が大森署に異動した後の事件を扱う『果断 隠蔽捜査2』と対応させると、ある時点での大森署管内の別事件ということになる。

懲戒  35ページ
時枝刑事総務課長が伊丹に報告する。捜査二課の現職刑事白峰洋一が参議院選挙時の選挙違反のもみ消しをはかったという事実があるという。彼は伊丹が警視庁捜査一課で管理官をしていたときに担当していた係にいた人物。伊丹は良く知っている。処分を決定する立場の警務部長・金沢は、処分について伊丹の意見を参考にしたいという。実質的な処分案を伊丹に決めさせたい意向なのだ。伊丹が白峰に質問すると、「私は、はめられたかもしれません」という返事。「辞表を出します」とまで言う。それを押しとどめる伊丹。マスコミ対策を憂慮し処分問題について頭を悩ます伊丹に、与党の大物政治家から会いたいという電話が入る。議員からの一種の圧力だ。伊丹は面談することにする。その後、伊丹は大森署の竜崎に相談をもちかける。竜崎は言う。「やるべきことをやればいい。それだけだ」と。

病欠  36ページ
伊丹はインフルエンザにかかる。熱が出て猛烈な寒気。間接の痛みもひどい。仕事をやすむわけに行かないと出庁する。第二方面の荏原署管内で死体発見の知らせが入る。捜査本部を五十人態勢で組み、荏原署に設置する指示を出す。しかし、各署でインフルエンザでやられた捜査員が多く、捜査員が足りない。例外的に大森署はインフルエンザの影響をほとんど受けていないという。竜崎が危機管理を事前に徹底実践していたのだ。伊丹は竜崎に捜査員10人の応援を求める。当の荏原署の署長がインフルエンザで病欠しているという。伊丹は合同捜査本部の会議に署長が出るように暗に指示する。会議が始まるが、そこに竜崎から電話が入る。そして、現場主義を標榜する伊丹に竜崎は忠告する・・・・

冤罪  28ページ
第三方面本部、碑文谷署で4件の不審火が続き、容疑者特定され逮捕される。物的な証拠がいくつか見つかっているが、容疑者は犯行をずっと否認する。その後、放火未遂でつかまった第二の容疑者がいて、すべての犯行を自供したという。第一容疑者は本当に冤罪だったのか。
現場主義の伊丹は、直接碑文谷署に出向き、状況を把握しようとする。たった一人の捜査員が、第一の容疑者江上の犯行を主張しているという。話を聞くと、2件の目撃情報と物証があるという。検察官が署にやってきて、早く送検しろと指示する。自供第一主義の警察だ。自供があるという事実。誤認逮捕・冤罪事件に発展するのを恐れる警察庁幹部。苦しいときの何とかで、伊丹は竜崎に相談の電話をかける。竜崎はあっさりとひとこと助言する。その助言は捜査の盲点だった。

試練  20ページ
綾瀬管内で発生した連続強盗で全国に指名手配された容疑者が、大森署の刑事に逮捕されたという。伊丹はねぎらいの言葉をかけようと竜崎署長に電話をかける。竜崎はあいかわらず、やるべきことをやっただけと答える。そして、竜崎がアメリカ大統領来日時の方面警備本部長に任命されたらしいということの事実を警備部長に直接質したいという。伊丹が竜崎の頼みを引き受ける。伊丹は何とか警備部長と面談することができる。警備部長は伊丹に竜崎がどういう人物か尋ねる。警備部長は、女性キャリアを竜崎のところに送り込み、竜崎を試してみたいと言う。
2ヵ月ほど経ってから、藤本警備部長から伊丹に直接電話がかかる。紹介したい人がいるという。予定を後回しにして警備部長室に行くと、紹介されたのは、例の女性キャリアだった・・・・
この短編だけは、比較的伊丹がリラックスしている話だ。「今度は俺がおまえを助けてやる番だ」という思いを強めているくらいだから。
『疑心 隠蔽捜査3』は、竜崎が方面警備本部長に任命され、アメリカ大統領来日の時を扱っているので、このエピソードはその少し前のエピソードという関係になる。

静観 49ページ
朝一番に一日の予定を告げに来る時枝課長の態度が気になる伊丹。質問すると、大森署の竜崎署長の下で、3つの不祥事が重なって起きているという。初動捜査で事故死と断定した事件に関連し、別件の強盗事件で逮捕された被疑者が取り調べ中に殺人を自白した一件。車両同士の交通事故の事故処理中に、交通課係員と運転手がトラブルを起こし、運転手が大森署を訴えるといきまいている一件。そして、窃盗事件が発生し、捜査員が地取りで話を聞いていた相手が犯人だったことが後ほどわかるが、その時には犯人に逃げられていたという一件なのだ。3つの事案が伊丹には伝達されず、方面本部の野間崎管理官が押さえていたという。過去に竜崎が野間崎を怒らせた一幕を伊丹はふと思い出す。
伊丹が大森署に出向く。竜崎に質問すると、三件の不祥事に対して、目下のところは「別に何もしない」という。唖然とする伊丹に対し、竜崎は「静観していればいい」と言うだけだった。警視庁に戻った後、伊丹は野間崎管理官を呼び、意見を聞く。彼はあくまで竜崎の責任を追及すると言う。竜崎が不利だと思う伊丹は、その夜、小学校時代の夢を見る。何人かの友達が竜崎を押さえつけている夢だった。竜崎は本当にピンチに立たされているのか?伊丹は、もう一度朝一番で、大森署に行こうと決意する。
この短編、事実確認の仕方の大事さを言外にうまく書き込んでいる作品だと思う。

伊丹の電話に対して、仕事の邪魔をするなと言いながら、相談にのり、的確な判断と意見を述べる竜崎。原理原則の思考から生まれる意見が事件を解決に導く大きな一石になる。伊丹が本書の主役であり、伊丹のキャラクターがよくわかる一方、竜崎の発言がキラリと光ってくるのがおもしろい。
同じキャリアでありながら、東大卒と私大卒に厳然と差があると認識する伊丹。そして、キャリアという立場ながら、現場主義に徹して現場を統率するスタンスが自分にとっては有利にはたらくという計算も含めて、自分に合ったスタイルだと方向づけていく伊丹の行動スタイル、通常の警察官の常識の枠に軸足を置く人物だ。そういう伊丹と竜崎のコントラストが事件に動きを与えていき、楽しく読めた。


この小説に出てくる用語や語句から関心を持ったものをネット検索してみた。

国家公務員倫理法 
この法律の第二章第五条に、政令で国家公務員倫理規程を定めることが規定されている。

国家公務員倫理規程

公職選挙法
第十三章選挙運動に、禁止事項が規定されている。

明治維新の警察  :「風適法のひろば」サイトから

日本の警察    :ウィキペディアから

川路利良     :ウィキペディアから

裏金  :ウィキペディアより

警察裏金・不正支出問題
 全国市民オンブズマン連絡会議が作成する、警察裏金・不正支出問題の特設ページ

(静岡県警)裏金問題 :静岡県庁の真ホームページ(発行・牧野紀之)から

県警裏金問題 弁護士ら討論 自由法曹団総会 松山 :愛媛新聞ONLINEから

道警裏金問題  :北海道新聞のサイトから


冤罪  :ウィキペディアから

冤罪事件及び冤罪と疑われている主な事件  :ウィキペディアから

こんなにある20世紀の冤罪事件  :FUKUSFI Plaza のウェブサイトから

冤罪ファイル バックナンバー一覧  :冤罪ファイルのウエブサイトから


検察庁 :ウィキペディアから

検察庁とは 

検察庁と刑事手続の流れ  :法務省のホームページから
(このページで、裁判の項に裁判員制度のことが触れられていないのが不思議)

犯罪の概要  :検察庁のホームページから

犯罪白書  法務省のホームページから


伊香保温泉  :ウィキペディアから

伊香保づくし :伊香保温泉旅館協同組合のホームページから

榛名山  :ウィキペディアから

榛名山の画像



ご一読ありがとうございます。