遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『鴎外の恋 舞姫エリスの真実 』 六草いちか  講談社

2011-09-02 17:15:26 | レビュー

本の表紙に使われている鷗外の気取ったポーズは、P323に紹介されている「ミュンヘン三羽烏」と名づけられた写真の一番右側でポーズを撮った鷗外像だ。1886年8月27日ミュンヘンの写真館で撮影されたものという。鷗外が横浜港を出発したのが1884年(明治17年)8月、帰国したのが1888年(明治21年)9月。留学中に、ライプツィッヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと順に滞在している。留学期間半ばでの写真だ。1887年4月にベルリンに移っているから、その前年に撮られた写真である。鷗外が恋人・エリーゼに出会う前ということになる。晩年の鬚を蓄えた鷗外の横顔写真しか見た記憶が無い私には、鷗外若かりし頃のダンディーな服装の写真を見て、結構楽しくなった。

遠い昔、学生時代に『舞姫』を読み、これは鷗外自身がモデルだということを聞いた記憶があるが、それ止まりだった。そして鷗外の恋人探しの本は、本書を読むのが初めてである。過去、鷗外の恋人について多くの方が研究成果や見解を発表され、鷗外の子供や親族も鷗外の恋について、様々な文章を綴っていたということを知った。本書は、2011年3月8日第一刷発行なので、「鷗外の恋」に関わる最新書なのかもしれない。

さて、著者は、本書冒頭の「はじまり」を「エリスにたどり着くまでの道のりは、蜘蛛の糸をたぐり寄せるような、心許ない作業の繰り返しだった」という一文から書き出している。そして、「おわり」の冒頭に、「こうして、エリーゼの姿を追い求めた半年が終わった」と記す。

義理で参加したある射撃クラブでの射撃訓練を終えて、参加者とビール酒場で射撃練習の成果を肴に談笑していた途中で、森鷗外の話題が飛び出した。話がはずむうちに参加者の一人、後日M氏と記される人物が、「オーガイというその軍医、その人の恋人は僕のおばあちゃんの踊りの先生だった人だ」と発言する。この発言がきっかけで、著者が鷗外の恋人・エリス探しに引き込まれて行く。著者はベルリンに二十年以上滞在し、ライターを職業とする人だ。そして、偶然が重なったとはいえ、半年間で舞姫エリスの真実について一つの動かぬ証拠を発見する。
ベルリン現地に居住しているという点を多いに発揮したエリス探しのプロセスをこの本にまとめている。それはあたかも、刑事が鑑取り捜査を地道にしらみつぶしに行うような、身許調べの探偵が克明に追跡調査を行うような感じである。現場調査、聴き取り、論理的な推論、さらに現場での追跡調査・・・試行錯誤と細い糸のつながりのたぐり寄せ、偶然発見した事実からの推論の展開、そして追跡の繰り返し。著者は記す。「前もそうだった。本当に諦めようとしたところで何かが見つかり、また先に続くのだ」(P198) 読んで行くうちに、そのプロセスに引き込まれていく。

偶然の導きがあったとしても、思いつきの行動なら、わずか半年のリサーチでそう簡単に成果を得られるはずはない。本書を読み進めて行くうちに、著者が鷗外の著作と鷗外に関する過去の諸研究をそれまでにかなり幅広く読み研究していたというベースがあることがわかる。さらに、ドイツでライターとして様々な調査経験を持っており、情報入手のための公的機関・施設などの利用にも慣れていたということが強味であることに気づいた。
それにしても、途中で根をあげそうになる地道なリサーチプロセスである。各種公文書館、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念資料館、各種博物館や各種図書館、教会や墓地管理局などへの書面や電話による問い合わせおよび、現地に足を運び資料を一ページずつ、一枚ずつ、しらみつぶしに調べていく作業の累積である。「ときに無駄足に終わり、ときに予期せぬ発見が待っていた」という追跡調査のプロセス。このエリス探しの過程で、鷗外の子どもや親族の発表文、先駆者の諸研究を再読し、吟味し、一方、鷗外の『舞姫』その他著作を、眼光紙背に徹するが如くに読み合わせて論理的に推論し、想像力を働かせて、著者は自己の視点を掘り下げていく。この掘り下げ過程は、恋人探しに対する諸発表文・諸研究の取り入れと批判という意味で興味深く、著者のリサーチの進め方を納得させる。そして、エリスの実像探しの過程で発見した客観的証拠を要所要所に提示する。その積み上げが著者の結論に説得力を加えて行く。かつてのベルリンの街の写真も多く掲載されていて、興味深い。

森鷗外の処女作小説『舞姫』のヒロインはエリス・ワイゲルト。太田豊太郎と恋人エリスの間に起きた悲劇の物語。だがそれは、鷗外自身を投影した作品とみなされている。勿論、著者も小説の主人公と鷗外を重ねて分析し、エリスの姿を追い求める。

最初に、著者は『舞姫』の豊太郎とエリスが出会った教会がどの教会かという考察を綿密にしている。そして、「エリス」の実像に迫っていく。

鷗外が帰朝した4日後に、鷗外の恋人の小柄で美しい女性が別の船で来日し、横浜港に降りたっていたという。
「エリス」という名の女性は1888年9月12日横浜港に到着。筑地のホテル精養軒に投宿する。「鷗外自身は彼女が帰国を決心するまで会おうとせず、帰国の交渉から旅費の調達や旅券手配に至るまで」(P56)実の妹・喜美子の夫である小金井良精氏が奔走したという。そして、エリスは10月17日往路と同じドイツ汽船で横浜港を出港し、帰国する。
小金井喜美子は、1935年(昭和10年)から38年にかけて『冬柏』に回想記を連載した。その中で、いきなり鷗外の恋人来日騒動の顛末を記したという。そして、鷗外がエリスを「どうせ路頭の花と思ったからでしょう。」と夫の疑問「エリスは全く善人だね。むしろ少し足りないぐらいに思われる。どうしてあんな人と馴染みになったのだろう。」に答えたという会話を挿入している。
著者は、この来日についても種々の資料をもとに考察し、「路頭の花」説に反撥を感じている。著者は思う。「鷗外に招かれて来日したのだ」と。

小金井喜美子氏の回想記をきっかけに、鷗外の子供たちも様々に父について語り始めたようだ。森杏奴氏は『晩年の父』に書く。「亡父が、独逸留学時代の恋人を、生涯、どうしても忘れることの出来ないほど、深く、愛していたという事実に心付いたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった」(P195)と。
また、1974年に星新一氏が『祖父・小金井良精の記』を出した。星氏は、小金井良精の日記には恋人が「エリス」であることはどこにも記されていないことや、鷗外は恋人の滞在中、頻繁に会っていたこと、小金井が日参したのは最初の頃だけということなどを記しているようだ。つまり、喜美子が前述のように築き上げた虚構が崩れたということになる。
本書の導入部に記されているエリス来日の顛末は興味津々というところだ。

来日した女性の名前については、1981年に、中川浩一・沢護の両研究者が、明治期の英字新聞に掲載された海外航路乗船者名簿から鷗外の恋人名を発見するという成果を上げていた。ドイツ汽船ゲネラル・ヴェルダー号の乗客で、Miss Elise Wiegert/エリーゼ・ヴィーゲルト。また、富崎逸夫氏がエリーゼの来日と帰国を各地各紙の記事で後付けられている。

つまり、エリスの実像、エリーゼ・ヴィーゲルト探しがこの本の動機でもあり、目的なのだ。エリーゼについては、既に諸説様々あるようだ。「エリス=路頭の花」説を嚆矢に、良家の子女説、裕福な仕立物屋の娘説、説、娼婦説、第二の下宿の娘説、ユダヤ人説等々。
様々な研究発表があるなかで、「ドイツにおいて実質的なエリーゼの身許探しを行った研究者となると数も限られ、広く知られるところでは金山重秀と植木哲の二氏のみである」と著者は記す。つまり、著者がその三人目であり、徹底した現地調査主義の成果がこの一書に結実したといえる。
一方、リサーチ途中の調査挫折の思いを、著者はこう記す。
「教会公文書館における調査は何の成果も得られないまま終了した。強いていえば、これまでエリーゼの軌跡を求めて教会公文書館に足を運んだ研究者はなかったのだから、未踏の地に足を踏み入れたという小さな達成感があった程度だ」(P183)

著者は、まずユダヤ人説の考察を行い、次にM氏の発言を追跡するためにM氏に聴き取りを行う。M氏の子どもの頃の記憶から、M氏の協力を得てM氏の叔父からエリの出生証明書のコピーを取り寄せる。生年月日が明らかになりその名も異なったものだった。エリスに辿り着くことは失敗し、夏が終わる。そこから、エリーゼ探しの新たな第一歩が始まる。
著者本来の仕事の予定の合間に、乗船者名簿、住所帳、教会の記録(教会簿・洗礼票・堅信礼の記録)などの資料追跡を、幾たびも挫折を繰り返しながら、その都度あらたな視点で継続実施していく。この作業プロセスの展開が実に興味深い。
ドイツで教会が果たしていた役割、ドイツの公文書館の閲覧のしくみ、ドイツの住所帳などの記録方法、ベルリン市の沿革史などが副産物として見えてきて、おもしろい。
このリサーチ・プロセスの展開とその記録自体が、本書の読みどころでもある。

本書の末尾近くで、著者は再び、エリス、つまりエリーゼの来日譚に戻っていく。そして考察する。「鷗外は、とりあえず騒ぎを収めるためにエリーゼを帰国させたが、すぐにエリーゼの後を追うつもりでいたのではないか。二人はそう約束を交わしていたのではないだろうかと」。鷗外の遺品のひとつにモノグラム型金があると書く。それは刺繍を刺すために使う型金で、「嫁入り支度用テンプレート」と呼ばれていたものとか。「1930年代頃までは、花嫁が婚礼の際に新郎の身の回りや家庭の布製品にイニシャルを施すことは、ドイツの一般家庭における伝統だった」(P312)と記している。

著者は鷗外がドイツに留学していた当時のエリーゼの職業には触れていない。エリーゼが帰国した後の客観的事実を明らかにすることにまず奮闘している。
2009年12月30日、これを最後にエリーゼ探しを終わりにしようと決意し、公文書館に行く。そして、以前、駅まで車に便乗させてあげた「墓地の近くにある家系譜調査事務所の職員」と偶然再会し、彼女の手助けも得て、遂にエリーゼの記録に行き着くのだ。

著者が発見したエリーゼの実像:
フルネームは、Elise Marie Caroline Wiegert /エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト
1866年9月15日、シュチェチン生まれ。来日時のエリーゼは21歳である。
著者は、遂に発見した教会の洗礼記録、堅信礼の記録、その他資料から、家族構成、父の職業、当時の下町の人々にありがちな次々と引っ越しをしたこの家族の住所の変遷などを明らかにしている。「父親はエリーゼが14歳の頃にはすでに他界し、エリーゼと妹アンナは母マリーの女手ひとつで育てられた」(P294)
エリーゼは、「日本から帰国した十年後の1898年から1904年の6年間は、帽子制作者としてベルリン東地区ブレーメン通り18番地に住んでいることが住所録から確認された」(P283)、「モーディスティンという職業」(P169)。これは、小金井喜美子が鷗外から聞いたこととして書いた「帰って帽子会社の意匠部に勤める約束をして来たといって居た」という文に符合する。

「鷗外とエリーゼの間に交わされた書簡やエリーゼの写真も鷗外の死の直前にすべて焼却され、今では見ることは叶わない」(P298)

2010年は、鷗外が『舞姫』を1890年1月に発表してから120年の年。
2011年は、日独修好通商条約から150年。
2012年は、鷗外生誕150年、没後90年。

著者は「おわりに」の末尾にこう記す。
本書によって、『舞姫』を新たに、または、再び手に取る人が増え、この作品が、「なぜ」書かれたのかについてまで思いを巡らせていただけたら、どんなに嬉しいことだろう。
この書を読み、森鷗外という人物の秘やかな側面が新たに見え始め、改めて森鷗外に興味を抱くことになった。著者の願いは、少なくとも一人を動機づけたといえる。


ネットで、森鷗外関連情報を検索してみた。関心を抱けば、かなりの情報が見つかるものだ。

森鷗外

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『舞姫』

森鷗外「舞姫」(朗読:日高徹郎)―名作名文ハイライト
teabreakt さんが 2011/05/06 にアップロード :YouTube動画

『舞姫』原文 :WIKISOURCE


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森鷗外記念館 西周旧宅(ブログ記事)

平成24年11月(森鷗外生誕150周年)(仮称)森鷗外記念館が開館します

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ベルリン紀行(3)森鷗外の足跡:フンボルト大学近くの下宿(ブログ記事)


作家別作品リスト:No.129 森鷗外

森鷗外作品一覧 解題

松岡正剛の千夜千冊 ウェブサイトより
森鷗外『阿部一族』    第七百五十八夜【0758】2003年04月21日

森鷗外論(Mikio Akamine氏のウェブサイト)

愛の旅人: 森鷗外「舞姫」
森鷗外と「エリス」―ドイツ・ベルリン 2007年03月03日

森鷗外のワイルド紹介

ビール先進国ドイツに魅了された日本近代文学史上まれなる文豪・森鷗外

 

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