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『孟子』巻第十三盡心章句上 二百五節、二百六節、二百七節、二百八節

2019-06-26 10:21:54 | 四書解読
二百五節

孟子は言った。
「仁義の道を全うしようととする者は、たとえば井戸を掘るようなものだ。九軔の深さまで井戸を掘っても、地下水に届かないと言って途中でやめてしまえば、自分から井戸を棄てたのと同じである。途中でやめてはいけない。」

孟子曰、有為者、辟若掘井。掘井九軔、而不及泉、猶為棄井也。

孟子曰く、「為す有る者は、辟えば井を掘るが若し。井を掘ること九軔にして、泉に及ばざれば、猶ほ井を棄つると為すなり。」

<語釈>
○「有為者」、趙注:「有為」は、仁義を為すなり。○「軔」、趙注:軔(ジン)は、八尺なり。七尺の説もある。

<解説>
趙岐の章指に云う、「仁を為すは己に由り、必ず之を極むるに在り、九軔にして輟めば、成功に益する無し。」何かを為そうとすれば、やり抜くことが大事であるが、これが難しい。

二百六節
孟子は言った。
「堯や舜は、本性である仁義を自然のままに行った人である。湯王や武王は、仁義を修養して身につけた人である。春秋の五覇は、仁義を借りて諸侯を正した人である。しかし借り物であっても、長いこと返さなければ、やがては誰にも借り物だということが分からなくなってしまうものだ。」

孟子曰、堯舜、性之也。湯武、身之也。五霸、假之也。久假而不歸、惡知其非有也。

孟子曰く、「堯舜は、之を性にするなり。湯武は、之を身にするなり。五霸は、之を假るなり。久しく假りて歸さずんば、惡くんぞ其の、有に非ざるを知らんや。」

<語釈>
○「性之」、趙注:「性之」は、性、仁を好むこと自然なり。○「身之」、趙注:「身之」は、之を體にし、仁を行う、之を視ること身の若し。○「假之」、趙注:「假之」は、仁を假りて、以て諸侯を正す。

<解説>
聖人や聖王は、仁義の道を自然に或いは身に體して行うことが出来るが、庶人はそれを借り物として学び苦しんで身につけることが大事である。そうすればやがてそれは借り物でなく、己の身に附いたものと為る。趙岐の章指に云う、「仁は性體に在り、其の次は假借して用いて已まず。實に何を以てか易えん、其の之に勉むるに在り。」

二百七節
弟子の公孫丑が尋ねた。
「殷の賢臣伊尹は、『道理に従わない者には慣れ親しむことはできない。』と言って、君主の太甲を桐に追放したところ、民は大いに喜んだ。後太甲が反省して賢明になったので、呼び戻し復た君主にしたので、民は大いに喜んだということですが、賢者が君に仕えて臣となったとき、その君が賢明でなければ、追放してもよいのでしょうか。」
孟子は言った。
「伊尹のような志があればよろしい。だが伊尹ほどの志が無く、そのようなことをすれば位を奪ったということになる。」

公孫丑曰、伊尹曰、予不狎于不順。放太甲于桐、民大悅。太甲賢。又反之、民大悅。賢者之為人臣也、其君不賢、則固可放與。孟子曰、有伊尹之志、則可。無伊尹之志、則篡也。

公孫丑曰く、「伊尹曰く、『予、不順に狎れしめず。』太甲を桐に放ち、民大いに悅ぶ。太甲賢となる。又之を反し、民大いに悅ぶ。賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」孟子曰く、「伊尹の志有れば、則ち可なり。伊尹の志無ければ、則ち篡うなり。」

<語釈>
○「不順」、朱注:不順は、太甲の為す所、義理に順わずを言うなり。

<解説>
ここでは君主の廃立という極めて重要な問題に触れられている。「賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」という問いに対し、孟子の返答もかなり微妙であり、是非の判断は難しい。趙岐も云う、「凡そ人の志異なれば、則ち簒心を生ず。」

二百八節
弟子の公孫丑は尋ねた。
「詩経の伐檀篇に、『功無くして禄を食まず』とありますが、君子といわれる人は耕しもせずに食を得ているのはなぜですか。」
孟子は言った。
「君子がその国に居り、その国の君主が彼を用いれば、国は安らかに富み、身は尊く栄え、国の若者たちがその君子に学べば、家では孝弟、国には忠信といわれるようになる。功無くして禄を食まずということでは、これより大きなものはあるだろうか。」

公孫丑曰、詩曰、不素餐兮。君子之不耕而食、何也。孟子曰、君子居是國也、其君用之、則安富尊榮、其子弟從之、則孝弟忠信。不素餐兮、孰大於是。

公孫丑曰く、「詩に曰く、『素餐せず。』君子の耕やさずして食らうは、何ぞや。」孟子曰く、「君子、是の國に居るや、其の君、之を用うれば、則ち安富尊榮に、其の子弟之に從えば、則ち孝弟忠信なり。素餐せざること、孰れか是れより大ならん。」

<語釈>
○「詩」、『詩経』魏風伐檀篇。○「素餐」、朱注:「素」は空なり、功無くして禄を食む、之を素餐と謂う。

<解説>
当時孟子は諸侯の間に養われていた。そこで公孫丑は暗に孟子を指して尋ねたのであろう。

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