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『孟子』巻第十三盡心章句上 百八十節、百八十一節、百八十二節、百八十三節

2019-04-30 10:18:16 | 四書解読
百八十節
孟子は言った。
「物事全ての道理は皆わが身に備わっている。だから我が身に立ち戻って、自分の言動を照らし合わせて、それが道理に適っていれば、これより大きな楽しみはない。大いに務めて思いやりの心で行動することは、仁を求めるのにこれより近い道はない。」

孟子曰、萬物皆備於我矣。反身而誠、樂莫大焉。強恕而行、求仁莫近焉。

孟子曰く、「萬物皆我に備わる。身に反して誠なれば、樂しみ焉より大なるは莫し。強恕して行う、仁を求むること焉より近きは莫し。」

<語釈>
○「萬物」、朱注:此れ理の本然を謂うなり、大は則ち君臣父子、小は則ち事物の細微、其の当然の理なり。物事の道理を謂う。○「反」、趙注:反は、自ら其の身の施行する所を思う。わが身の言動を省みること。○「強恕」、務めて思いやること。

<解説>
「萬物皆我に備わる」とは、前節の「在我者」とほぼ同じ内容であろう。朱注に云う、「大は則ち君臣父子、小は則ち事物の細微」は前節の朱注の「仁義礼智」である。仁への道は趙岐の章指に「毎に必ず誠を以て己に恕して行う、樂しみは其の中に在り、仁の至りなり。」とあり、『説文』に恕は仁なりとあり、又論語に、「夫子の道は忠恕のみ」とある。誠に恕の心こそが仁への道である。

百八十一節

孟子は言った。
「物事を実行しても、その道理が分かっていない。繰り返し行ってもはっきりと理解することが出来ない。一生そのような状態で、物事の道理を理解できないままに終わる者は多くいる。」

孟子曰、行之而不著焉。習矣而不察焉。終身由之而不知其道者、衆也。

孟子曰く、「之を行いて而も著らかならず。習いて而も察らかならず。終身之に由りて、其の道をしらざる者は、衆きなり。」

<語釈>
○「著」、朱注:著は、知ること之れ明なり。“あきらか”と訓ず。○「察」、朱注:識ること之れ精なり。“つまびらか”と訓ず。○「終身由之而不知其道者」、この句の解釈も諸説ある。この句を前の二句を受けた句と理解する説と、前の二句と並べて三項とする説がある。前者は朱注で、後者は趙注である。朱注を採用する。

<解説>
人は一生道を理解することが出来ずに終わる者が多い。それでは道とはそれほど深淵なものであろうか。そうではない。『中庸』の冒頭に、「性に率がう、之を道と謂う」とあるように、日常の行いが道なのである。服部宇之吉氏が、「妻子を愛する如き習性が仁の一端なれば、之を万事に推及ぼさば、道に達し得べきものなることを察知する能わざるなり、故に知らず識らず仁を行いながら其の道を知らざるもの多し。」と述べているが、これがこの節の趣旨である。

百八十二節
孟子は言った。
「人は恥じる心がなければならない。羞恥心がないことをこそ恥じだと思えるようになれば、人から恥辱を受けることは無くなるものだ。」

孟子曰、人不可以無恥。無恥之恥、無恥矣。

孟子曰く、「人は以て恥づること無かる可からず。恥づること無きを之れ恥づれば、恥無し。」

<語釈>
○「恥」、趙注:人能く己の恥づる所無きを羞づれば、是れ行いを改め、善に從うの人と為り、終身復た恥辱の累有る無きなり。この注によれば、全部で四つある「恥」の字の内、最初の三つは「羞恥」の意であり、最後の「恥」は恥辱の意である。他説もあるが、趙注に從う。

<解説>
次節で一緒に解説する。

百八十三節

孟子は言った。
「人にとって、羞恥心はとても大事なものだ。機を見て態度や口先を変えるのが巧みな者は、恥を感じる心がない。他人に及ばないことを恥ずかしいと思わないようでは、どうして人並みであることができようか。」

孟子曰、恥之於人、大矣。為機變之巧者、無所用恥焉。不恥不若人、何若人有。

孟子曰く、「恥の人に於けるや、大なり。機變の巧を為す者は、恥を用うる所無し。人に若かざることを羞ぢずんば、何ぞ人に若くことか有らん。」

<語釈>
○「機變之巧」、機を見て態度や口先を変えるのが巧みであること。

<解説>
前節と合わせて、恥じ入る心の大切さが述べられている。儒家にとって「恥」は大きな命題であり、孔子も多く言及している。今の我々からしても、羞恥心の大切さはよく分かる。現代人は何事においても羞恥心が希薄になってきているように思われる。

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