Teddy Bear’s Diary

自作のテディベアの写真で、絵本を読んでいくようなページをつくりたい

藤村詩塚

2006-11-26 | テディベア

下仁田戦争は、元治元年(1864)11月15日、水戸の天狗党と幕府から命を受けた高碕藩が戦い、高碕藩では36人の戦死者を出し、天狗党も4人の戦死者を出す激戦だった。

 

追討軍の高碕藩が本陣を構えた里見家。
里見家は明治16年に火災で焼失し、現在の建物はその後再建されたものだが、正門と土蔵は当時のままのもので、今でも土蔵の壁には、下仁田戦争の時の弾痕が残っている。

 

里見家の先代当主治雄は、旧制富岡中学校で教師に藤村の作品について学んだことから、藤村文学に傾倒するようになった。
やがて治雄は、下仁田の自宅近くに「藤村詩碑」の建立を計画、藤村からは自筆の詩文が送られてきた。
詩文にそえて、「あれは詩塚とか詩の塚とかよんでください」とあり、藤村詩塚といわれている。(左側)
碑面には、「過ぎし世を志津かにおもへ 百年もきのほの如し 島崎藤村 かつて上州かふら河のほとりを旅せし縁故より旧詩の一節をもとめらるゝまゝに」とある。

 

里見家には藤村の詩幅、色紙、書簡・はがきのほか、藤村の署名入り写真、署名入り全集などが多数所蔵されてある。
学会のシンポジュウムにも参加された里見さんが、惜しみなく、次々に出してきては、見せてくださる。

 

ファイルされている藤村からのはがきをみる会員。

 

明治8年1月、同志社英学校を開校した新島襄の旧宅。

 

安中教会礼拝堂(新島記念堂)、新島襄召天30年を記念して建設された。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
藤村詩塚 (ガリ)
2006-11-26 10:59:24
下仁田戦争の時の弾痕が、今もその当時のまま
残ってるなんてすごいですね。
残ってる、ではなくて、大切に残してる
なんですよね。
これを見る人は、それぞれ心に思う事、学ぶ事が
あるでしょうね。
下仁田と言えば下仁田ネギ、甘くておいしいですよね

「藤村詩碑」の詩文、すてきですね。
藤村直筆の、はがき等を手にとって見られるなんて
すごいことですね。
今日は沢山の勉強をしました。
ちょっと賢くなったような...。
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Unknown (プチくま家の管理人)
2006-11-26 16:44:13
新島襄のゆかりの地がこんなところにあるんだねぇ。
同志社を創った人だからてっきり京都の人だとおもってましたぁ。
同志社大学の中にある礼拝堂は雰囲気がよくて好きなんよねぇ。
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歴史 (jun)
2006-11-26 18:10:14
>ガリさん
こういう歴史的なものを保存するのは、個人も地域も強い意志がないとできないことです。
大切に残しているわけですよね。
現地に立ってみると、無茶苦茶な幕府の命令に従わざるをえなかった当時の犠牲者の痛みなどが伝わってきました。

>プチくま家の管理人さん
新島襄は安中藩の江戸藩邸で天保14年(1843年)正月14日、祐筆新島民治の長男として生まれました。
早くに蘭学を修め、海軍伝習所で数学、航海学などを学びましたが、西洋文明の吸収に大志を抱き、元治元年(1864年)6月14日、函館から脱国しました。
明治7年11月にアメリカから帰国、明治8年1月、横浜から船で大阪に向い、京都の旧薩摩藩邸跡を買い取り、同志社英学校を開校したわけです。
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藤村! (Donn)
2006-11-26 18:12:14
詩塚、自然石で情緒があっていいですね。
さすが学会ですね。本当の葉書などが見る
ことができてすごいですね。
私も勉強させていただきました。
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学会 (jun)
2006-11-26 18:30:29
>Donnさん
学会の隣地研究は、普通の観光とは違って、現地の一流の方たちが協力して、準備段階から関わってくださるので、実りが多いんです。
詩塚は、斉藤治雄さんが29歳の時に建立、藤村は60歳近かったそうですが、年齢を超えての交流がすばらしいですよね。
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こんな質問いいのかなぁ ()
2006-11-26 20:03:26
下仁田戦争って初めて知りました。
何人対何人で戦ったのでしょうか?
今の戦争じゃ考えられない位の死者の数ですね。
天狗党ってネーミングが時代劇みたい。
里美さんて何代めの方なんですか?
こんな質問でjunさん怒らないでねっ!
今回、藤村についてかなり勉強させてもらってます。
いや、毎回ここでは色んな事勉強させてもらってますが。(笑)
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下仁田戦争 (jun)
2006-11-26 21:45:14
>和さん
下仁田では、高崎藩207名は名主里見家に、天狗党925名は、里見家から徒歩15分位の櫻井家に、本陣を置き、双方未明から戦争を始めましたが、多勢に無勢で高崎藩本陣は集中砲火を浴び敗走しました。
結果的に、高崎藩は戦死者36名を出し、捕縛者8名は同町青岩河原で処刑され、武器弾薬は奪取される被害を出し、天狗党も4名の戦死者をだしました。
Googleで「下仁田戦争」を検索してみてください。
天狗党のことも含めくわしいことがわかります。
群馬県甘楽郡下仁田町下小坂48番地の里見家は代々「治兵衛」を名乗る旧家で、旧幕時代は、下小坂村の名主を勤め、幕末から明治初めにかけて、寺子屋を開き、村の中心的役割を果たしていたそうですが、現当主が何代目かは知りません。
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