太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

近過ぎるが故の疎外感

2019-05-30 07:46:30 | 日記

日々のニュースでは日本に平和で安全な国というイメージは無いが歴史的には概ね平和な国だったのだろう。一番大きな理由は陸続きで国境を接する国はなく、侵略されたこともなく他国との大きな戦争は先の大戦を除いては無いことだ。その間、島国の中で箱庭文化ともいえる独自の文化を築いてきたのである。モンゴルの大草原やゴビやタクマラカン、エジプトやチュニジア、モロッコの砂漠で地平線を見てしまうと、京都の日本庭園が何だか息苦しく、重すぎると思ってしまうのは情緒に欠けるせいであろうか。小さな庭石一つ、盆栽の葉っぱ1枚に世界とか宇宙があると言われても作為がある世界はやはり重苦しい。我々はこの箱庭の世界でまるでフィギュア人形のように配置され傷つけあうことも互いに干渉もせず、狭い平和な世界を仲良く築いてきた。良し悪しの問題ではない。

概ね平和であった理由には自然条件も大いに関係している。列島の真ん中を背骨のように山脈が貫き、山は雨をもたらし、飲み水に困ることはなく、農作物も極端な灌漑をしなくとも育つ。世界でも稀有な幸運な国である。精神世界を垣間見ることができる古典文学はどうだろう。ヨーロッパのように他国との戦争や場合によっては国の統廃合などは経験したことがない、また中国のような広大な土地もないから皆隣人でありドラマチックな物語は生まれ難い。どうしても内向的にならざるを得ない。広さよりも深さ、分散より集中である。

今の時代はどうか。地理学的には同じであってもインターネットが世界中の国や人、あるいは出来事を瞬時にして繋いでしまう。これは我々の精神世界にも大きな影響を与えている。既に古典文学のような精神統一できる世界は得られないのである。幾つか古典も読んだが、その時代だから書けたと思ってしまい感動するようなものには行きあたらなかった。情報は勝手に飛び込んで来るし、探しに行けば消化できないほどの情報がある。隣人が増え、純粋な精神状態を保つことは難しい、現在、後に古典文学と呼ばれるものが生み出されていっているのかというと多分ノーである。ただし霞が関文学だけは例外である。後の時代、象形文字の謎解きのように解釈を巡って論争が起こることは間違いない。文学と雖も時代の枷から抜け出せないからこれも時代を代表する文学と言って差し支えないと思うが。

精神世界は当然行動にも影響する。トランプさんが個人的に株の売買はしなくとも発言一つで株は上下する。世界は同時に瞬間的に動く。これも発言という情報が投資家の行動を規定している例と言えなくもない。世界の隣人の数は増える一方で、フィギュアも近づき過ぎると干渉して倒れることもある。関係範囲が広がる中で、密度が増す中で、近過ぎる社会関係の中で、頭の中で芽生えた疎外感こそが大問題である。年とともに情報量や(隣人や社会)関係性を整理していかないと行動量に限界が出て来るからジレンマに陥る。頭でっかちを支える筋肉も背骨も衰えてきた。