何とも悲惨な事件が起こった。川崎で登校のバス待ちの児童が通り魔に襲われた。大人を含めて死傷者は多数にのぼる。夜のTVニュースで自殺した犯人の名前が出て来た。生い立ちや生活ぶりも徐々に明らかになってきたが大事件を起こした動機は分かっていない。51歳の男性であるが年老いた叔父叔母と三人暮らしのようだ。愛情を注がれて育ってきたようには思えない。だからといって事件を起こす理由にはならない。世の中には孤独の中でも立派に成人し普通の社会生活を送っている人は山ほどいる。亡くなられたのは12歳の女児と外務省の事務員である。ミャンマー語の専門職のようで将来を嘱望された信頼の厚い職員だったようだ。この日も子供を送ってバス停にきたところを襲われたろのこと。家庭でも良いお父さんぶりもうかがえる。女児はこれからやりたいこと、なりたいことが山ほどあり人生のスタートラインに立ったばかりである。どちらにも生きるべき理由や山ほどあり、死ぬ理由など微塵もない。もし神様が居るとしたら彼らに何と声を掛けるだろう。神様でも言葉が見つからないのではないだろうか。犯人の方は恐らく死ぬ理由があったのだろう。通り魔事件の被害者は、一体今までの人生は何だったんだろうと何時も思う。何の落ち度もなく堅実に暮らしてきた日常が突然絶たれたのである。被害者の家族は犯人が生きていれば怒りの矛先もあるが今回は自殺してしまった。やり場のない怒りや悲しみはいかばかりのものか。もし犯人に何処にも向けられることのない怒りや鬱憤があったとしても道ずれを誘う理由は何処にもない。死にたいなら何処か遠くで人知れずやってくれ。
通り魔事件が起こるたびに対策やら原因究明が叫ばれるがこのところ悲惨な事件は後を絶たない。ゲーム感覚だとか教育の問題とか社会の問題とか色々言われるが単純ではないだろう。子供の頃肥後守という小刀で指先を切った時の痛い感覚が残っているのだろう。これが他人の指なら躊躇なくできるか。私にはできない。最近日本は他人の痛みや辛さを感じない人が増えているように思うのは気のせいだろうか。問題は日常の隣近所に居る人がそうなってしまうことである。しかし本当に誰も異常さに気付かなかっただろうか。防犯カメラは事後の追跡に大いに役立っているが未然に犯行を防ぐのは計画性を持った犯行であろう。監視が行き届いたところで犯行をは躊躇するだろう。ところが今回のように周りが全く見えなくなった犯人に効果はない。やたら警官のパトロールを増やす、これはある程度犯罪を未然に防ぐ効果はあるだろうが人手不足か最近はあまり見かけない。民間のボランティアパトロールが補完できる部分はある。
一番恐ろしいのは日本が少しづつ変わって行っているのではないだろうかということである。それは頭の中、精神性の点である。知らない間に羊の皮を被ったライオンが我々の近くを徘徊している可能性である。それでも何かしらのサインは出しているであろう。人権の問題もあろうがそのサインを見落とさないようにするためには衆人環視の目も必要である。特に人間関係を断った人は要注意である。その前に、断たれた人間関係を修復する社会システムが重要であることは言うまでもないのだが。犯人があの世で被害者に会う事はないだろう。地獄から天国は見えない。