ふと考えることがあります。
僕の職業は、公立高校の教員です。
そして、平日も休みの日も“学校”で過ごす時間が多くを占める生活を送っています。仕事と部活にエネルギーを注ぐ多くの先生方が、そのような生活をしています。
“学校”という空間の中で、“教師”という立場で“生徒”と接していると、お互いの常識が離れており、うまくコミュニケーションが取れずに悩むこともたくさんあります。
教師になりたての頃、「僕は教師で君は生徒なんだから、僕の理論に従いなさい」というスタンスでした。確かに、この理屈は筋が通ってはいるものの、実際の人間との関わりの中では、反発を生むことが多く、おそらく生徒側からすると「権力をかさにきた嫌味な先生」に映る場合もあったことでしょう。
人が生きていく上で心に響く大切なメッセージを伝えたい
そう思ってこの職業に就いたのに、学校の規則を守らせる為、いつの間にか生徒の意思を無視して押さえ付けている自分に気付いた時期がありました。
しかし、“学校”という空間は、間違いなく“常識”を子ども達に教える空間であり、規則を守れない子どもには指導し、理解してもらわなければなりません。
“常識”の世界の中にいる存在である事を世間の人に認識してもらう為に、生徒たちは制服を着るのであって、学校に所属する以上はその規則に従うことが必要です。
極論すると、その“常識”に従えない生徒は制服を脱いで、“常識”に縛られない世界に行かなければならないのです。
問題はその為の手段です。
これまで試行錯誤してきて、本当の教員の力というのは、「共感してもらう力」だと感じるようになりました。
“生徒”の立場を理解した上で、“常識”を相手にわかってもらうこと。
高校生にとって、“常識”とは夢がなくつまらないものに映ることでしょう(実際、僕もそうでした)。
しかし、時は流れて立場は変わり、僕はその“常識”を教える立場になったのです。
考えてみると、“常識”というのは実体がなく、生活経験・社会経験の中で獲得してきた価値観です。
これに囚われてばかりではいけませんし、独り善がりなものになってもいけません。
↓↓↓
常識(じょうしき)は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識(ひじょうしき)。
《Wikipediaより》
和歌山で教師になりたての頃、先輩に「柔道部の子どもは関わりが深いから、君の言うことをわかってくれる。大切なことは、柔道と関わりのない子どもを君がどう指導できるかだよ」という課題を頂きました。
あれから数年が経ち、その課題の意味を考える場面がたくさん出てきました。
教育現場の中で、凄いなぁ!と尊敬する先生方もたくさん見つけました。
今になって考えると、みなさん「共感してもらう力」が非常に高かった。
話をまとめます。
本当に伝えたい大切なメッセージ
これを伝えるためには、相手のメッセージも読み取り、相手の立場を理解して、その上でこちらの立場も相手にわかってもらう努力が必要なのだと考えます。
その上で、自分たちが生活する中での“常識”を、常に振り返って確認する作業を欠かさずに行っていく。
実際の生活では、試行錯誤・悩み・葛藤だらけではありますが、こういう点を意識して過ごしていきたいなと考えています。拙い文章にまとめさせてもらいました。
僕の職業は、公立高校の教員です。
そして、平日も休みの日も“学校”で過ごす時間が多くを占める生活を送っています。仕事と部活にエネルギーを注ぐ多くの先生方が、そのような生活をしています。
“学校”という空間の中で、“教師”という立場で“生徒”と接していると、お互いの常識が離れており、うまくコミュニケーションが取れずに悩むこともたくさんあります。
教師になりたての頃、「僕は教師で君は生徒なんだから、僕の理論に従いなさい」というスタンスでした。確かに、この理屈は筋が通ってはいるものの、実際の人間との関わりの中では、反発を生むことが多く、おそらく生徒側からすると「権力をかさにきた嫌味な先生」に映る場合もあったことでしょう。
人が生きていく上で心に響く大切なメッセージを伝えたい
そう思ってこの職業に就いたのに、学校の規則を守らせる為、いつの間にか生徒の意思を無視して押さえ付けている自分に気付いた時期がありました。
しかし、“学校”という空間は、間違いなく“常識”を子ども達に教える空間であり、規則を守れない子どもには指導し、理解してもらわなければなりません。
“常識”の世界の中にいる存在である事を世間の人に認識してもらう為に、生徒たちは制服を着るのであって、学校に所属する以上はその規則に従うことが必要です。
極論すると、その“常識”に従えない生徒は制服を脱いで、“常識”に縛られない世界に行かなければならないのです。
問題はその為の手段です。
これまで試行錯誤してきて、本当の教員の力というのは、「共感してもらう力」だと感じるようになりました。
“生徒”の立場を理解した上で、“常識”を相手にわかってもらうこと。
高校生にとって、“常識”とは夢がなくつまらないものに映ることでしょう(実際、僕もそうでした)。
しかし、時は流れて立場は変わり、僕はその“常識”を教える立場になったのです。
考えてみると、“常識”というのは実体がなく、生活経験・社会経験の中で獲得してきた価値観です。
これに囚われてばかりではいけませんし、独り善がりなものになってもいけません。
↓↓↓
常識(じょうしき)は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識(ひじょうしき)。
《Wikipediaより》
和歌山で教師になりたての頃、先輩に「柔道部の子どもは関わりが深いから、君の言うことをわかってくれる。大切なことは、柔道と関わりのない子どもを君がどう指導できるかだよ」という課題を頂きました。
あれから数年が経ち、その課題の意味を考える場面がたくさん出てきました。
教育現場の中で、凄いなぁ!と尊敬する先生方もたくさん見つけました。
今になって考えると、みなさん「共感してもらう力」が非常に高かった。
話をまとめます。
本当に伝えたい大切なメッセージ
これを伝えるためには、相手のメッセージも読み取り、相手の立場を理解して、その上でこちらの立場も相手にわかってもらう努力が必要なのだと考えます。
その上で、自分たちが生活する中での“常識”を、常に振り返って確認する作業を欠かさずに行っていく。
実際の生活では、試行錯誤・悩み・葛藤だらけではありますが、こういう点を意識して過ごしていきたいなと考えています。拙い文章にまとめさせてもらいました。