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「まちかど雛めぐり」 さいたま市岩槻区

2013年02月26日 13時35分40秒 | 祭・催し

「まちかど雛めぐり」 さいたま市岩槻区

厳しい寒さに震えながら、12年ももう3月。ひな祭りのシーズンである。生産量・額とも日本一の人形の町、さいたま市岩槻区で「まちかど雛めぐり」(第9回)が開かれた。

♪お内裏さまと おひなさま 二人ならんで・・・♪を口ずさみながら、寒さがいくぶん和らいだ日に訪ねた。

神社やコミュニティセンターなど12か所の特別展示場のほか、人形店、飲食店、銀行など86の店で人形を展示したという。

雛めぐりには何度か来ているので、まっすぐ「お人形歴史館」に向かった。駅からちょっと遠いが、人形師でもある福田東久館長が、60年以上かけて集めたひな人形約4千体のうち2300体余飾られている。

最近各地で、全国に呼びかけて集めた、古いひな人形の数や飾る段数の高さを誇る展示が目立つ。ここのは量より質である。

圧巻は、館に1千体あるという「かみしも(裃)雛)」だ。館では「岩槻元祖かみしも一千体雛」と呼んでいる。約500体が展示されている。

幕末に岩槻・久保宿に住んでいた人形師橋本重兵衛が考案したと伝えられる岩槻の伝統工芸品で、かみしもを着ていて、目が大きく童顔なのが特徴。

かみしもを着ているのだから男の子である。衣装の赤色は魔除け。女の子が成長して、こんな裃を着るような立派な男性と結婚できるようにという願いを込めて、贈られた。

内裏雛と違って、男雛、女雛一対ではなく、一体でも飾る。冠や杓など持ち物はない。

岩槻人形が知られるようになったのは、江戸末期の文化・文政期。このかみしも雛によるところが多い。

着物に綿を使ったので、西陣などを使ったものより安く、明治、大正時代に関東中心に流行、埼玉、群馬県に多く残っているという。

珍しいのは、一対(二体)ある寛永年間に作られた「寛永雛」である。日本最古の座り雛とされ、国内に5体ほどしかないといわれる。

雛人形の源流ともいえるものだが、その小ささに驚く。女雛は両腕を開いた姿ながら、両手先がついておらず、着ている衣服も小袖に袴の略装で、男雛に比べ見劣りする。

「寛永雛」に続いて年代順に、女雛に両手先がついて、衣服も十二単衣になる「元禄雛」、面長で大型、豪奢、「贅沢すぎる」と幕府から取締りをしばしば受けた「享保雛」、丸顔の「次郎左衛門雛」、宮中の装束を忠実に再現した「有職(ゆうそく)雛」、面長で現在の雛人形につながる「古今雛」・・・と、岩槻の「雛めぐり」はその変遷を眺めているだけで楽しい。

段飾りも年代とともに豪華で段数も増えていくことが分かる。

岩槻の人形作りは、日光東照宮の造営とかかわりがある。寛永年間、三代将軍家光が造営のため全国から集めた工匠の中で、日光御成街道の宿場町だった岩槻に住み着いた者も多かった。数多く生えていた桐を使ってタンスなどの製品を作ったり、その際に出る桐の粉を糊で固めて人形作りをはじめた者もいた。

元禄年間、京都の仏師恵信が、桐のおが屑と正麩糊(しょうふのり)を使って、土製の人形より軽い人形づくりを伝えたともいわれる。

それが旅のお土産として人気が出て、岩槻藩の専売品に指定され、現在のような産地に成長した。

岩槻では3月3日に「おひな様パレード」、4月29日には「流しびな」、7~8月には「人形のまち岩槻まつり」、11月3日には「人形供養祭」が行われる。

江戸時代は徳川の譜代大名が城主として統治、埼玉県の初の県庁が置かれたこともある。05年、さいたま市と合併、区になった。

昔の日光御成街道沿いの城下町らしい町である。

17年の雛めぐりには、土、日曜日に東武野田線岩槻駅近くの愛宕神社の27段の階段に、家庭で使わなくなった人形約300体を並べた「大ひな段飾り」がお目見えした。

県内では、この市のほか鴻巣、越谷や所沢市でもひな人形や節句人形が作られていて、10年の出荷額は全国首位、シェアも約5割と圧倒的だ。



 



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