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秩父音頭まつり 皆野町

2013年08月16日 11時41分06秒 | 祭・催し

秩父音頭まつり 皆野町

♪ ハアーアーア アーエー 鳥も渡るか あの山越えて 鳥も渡るか あの山越えて・・・♪

埼玉県を代表する民謡「秩父音頭」は、学生時代から好きだった。踊りも現地で一度は見たいものだと思っていた。

13年も8月14日に皆野町で「秩父音頭まつり」が開かれるというので、喜んで出かけた。45回を迎えるという。町の花にあやかって「合歓(ねむ)の盆」と名づけられている。

秩父鉄道の皆野駅で降りるとまもなく、「秩父音頭発祥の地」と書いた看板があって、植え込みの中に「秩父音頭家元碑」が立っている。

流し踊りコンクールが毎年開かれ、人口1万1千の町で、今年は15人から50人程度の大小77チーム約1500人が参加した。

出場チーム一覧表を見ると、近隣の長瀞町や寄居町のチームもちらほらあるが、ほとんどが地元。

中でも、皆野中は運動部がそれぞれ参加していて、子ども会、青少年育成会のチームも目立った。

盆踊りと言えば、中高年齢層の参加が多い。この町では、子供たちの姿も多く、秩父音頭のふるさとの伝統は若者に着実に引き継がれている印象を受けた。民謡の歌い手も、女子中学生ら若い女性が自慢ののどを張り上げる姿が多く見られた。民謡を肉声で聞くのはなかなかいいものだ。

町役場の「新鮮組チーム」を先陣に駅近くのバスターミナルを出発、午後5時ごろから高いやぐらが組んである役場庁舎前の「おまつり広場」に集結、輪になって踊る。(写真)

秩父音頭は、日本俳句会の長老、金子兜太(とうた)氏の実家で、今も街の中心部にある「金子医院」(以前は壷春堂医院)が中心になってできた。

その縁で、弟で家業を継いだ金子千侍(せんじ)氏が家元を務めている。

秩父音頭は、この地に伝わる盆踊りが基になっている。200年の歴史があるとされるものの、昭和初期には歌詞も踊りも卑猥そのものに堕し、踊りは「ボウフラ踊り」、歌は「助平唄」と言われた。警察も禁止していたほどだ。

これを再興しようと図ったのが、兜太氏の父親、医師で俳人(号は伊昔紅=いせきこう)の金子元春だった。上海の同文書院の校医をしていたが、故郷に帰ってきたばかりだった。

伊昔紅は、俳句誌「馬酔木(あせび)」を出した水原秋桜子と現在の独協中・高時代の同級生で、同人だった。当時の県知事とも大学時代、東京にあった埼玉県人の学生寮「埼玉誘掖会」で一緒だったことから、秩父音頭づくりも知事から依頼を受けたものらしい。

1930(昭和5)年、一般から新たに歌詞を募集、自分でも作詞した。節は「秩父木挽き唄」では右に出るものがないとされた名人吉岡儀作に唄わせて、粋な趣味人だった元春の父親の金子茅蔵が妹に踊らせて振り付けた。踊りの身振り手振りに生糸を紡ぐ糸車の様子などが織り込まれている。

この年の11月3日、明治神宮の遷座十年記念祭に招かれて「秩父豊年踊り」の名で奉納され、全国の注目を浴びた。翌日には愛宕山にあったNHK放送曲から全国放送された。

明治神宮には、男21、女10の31人が参加、男性は花笠を背にして踊ったという。

1933(昭和8)年、帯広市で開催された全国レクリエーション大会に「秩父音頭」として出場して1位、1950(昭和25)年の全国レクリエーション大会で民謡部門優秀1位に選ばれた。群馬の「八木節」、栃木の「日光和楽踊り」とともに、関東三大民謡の一つに数えられている。

秩父音頭の生みの親、金子元春の銅像は、桜で有名な美の山公園の山頂近くにある。

俳誌「馬酔木(あせび)」の同人で、皆野町の俳句会の主宰者だった元春は

♪ 秋蚕仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり・・・♪
♪ 花の長瀞 あの岩畳 誰を待つやら おぼろ月・・・♪
♪ 炭の俵を 焼く手にひびが きれりゃ雁坂 雪かぶる・・・♪
♪ 一目千本 万本咲いて 霞む美の山 花の山・・・♪

を秩父音頭の歌詞に残している。

四番目の一目千本は、元春の最後の作品で、銅像の隣の歌碑に刻まれている。

歌い出しの ♪ 鳥も渡るか・・・♪ は別人の作である。このように何度も募集され、何番もある歌詞は合作になっていて、特に歌う順番は決まっていない。



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