鎌倉時代、公家(朝廷)が武家(幕府)への討幕の兵をあげ、朝廷の復権をめざした。
北条 義時が鎌倉幕府の執権の時に、巨大な軍事力を有していた後鳥羽上皇は朝廷の復権をめざして種々の政策を断行していった。 壮大な皇室荘園領を手中におさめた上皇は、その経済力で西国の武士や御家人たちを誘った。
後鳥羽上皇は勝気な性格で武芸を好み、盗賊逮捕の現場に加わり、自ら賊をねじ伏せたという伝説をもつほどの人物であったようです。
1219年、将軍 源 実朝が鎌倉で暗殺された。これにより、源氏将軍の血統は3代で絶えた。 幕府の実権は北条 義時が握っているとはいえ、将軍あっての北条氏であり、東国の武士すべてが北条氏に心服している訳ではなかった。 「いま突けば、幕府は崩壊する」・・・・。
そう後鳥羽上皇は判断し、討幕の兵をあげることを決意。 1221年、周到な準備のもと北条 義時追討の院宣(上皇又は法皇の命令を受けて出す公文書)を全国に下した。
畿内の御家人や西国武士が朝廷に味方したものの、東国武士は誰ひとり後鳥羽上皇の誘いに応じなかった。 確かに鎌倉の御家人たちは院宣を受けてかなり混乱した。
だが、この時にあって武士たちの動揺を静め、彼らを一致団結させた女性がいた。 頼朝の妻で尼将軍といわれた北条 政子である。 彼女は御家人たちを一同に集め、次のように熱弁をふるったそうです。
『朝廷から差別され搾取され続けた武士たちを、現在の地位に引き上げたのはだれか。それは頼朝ではなかったのか。 その恩に報いるのは、まさに今である。 もし朝廷に従う者あれば引き留めはしない。 申し出よ。 ただし京都におもむく際には、私を斬り捨てて行きなさい。』
かくのごとき涙ながらの 訴えに、御家人たちは感じ入り、結束を固くして大軍で上方へ攻めのぼり、朝廷軍を打ち破ったのである。
一方、後鳥羽上皇は院宣の効力で、直ぐに幕府が崩壊するものだとたかをくくっていたため、大挙して上洛した幕府軍にあっけなく敗れ去った。 後鳥羽上皇は捕縛されて隠岐へ流され、1239年、同地で死去した。
前記の争いが承久3(1221)年《承久の乱》といわれています。
この戦乱の結果、朝廷と幕府という公武の二元政治が終焉し、武家の全国政権がついに確立されたとのことです。
この戦乱後、上皇側の公卿(くぎょう)で参議であった藤原 範茂(のりしげ)卿はとらえられて京都から鎌倉に送られる途中、足柄峠を越えて関本に至り、明日はいよいよ鎌倉です。 着くと、そこで首を切られてしまいます。
この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないというのです。 範茂卿は役人に頼み近くの清川(現在の貝沢川)で死なせてもらうことにしました。 着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川をせき止めて入水し最後をとげたとのことです。
役人たちも哀れに思い高台に葬りました。 それが、この宝篋印塔(ほうきょういんとう)のある場所です。
辞世の歌に
思いきや 苔の下水 せき止めて
月ならぬ身の やどるべきとは
と残されています。
※参考図書「早わかり日本史」河合 敦著
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