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🏯 石垣山一夜城 🏯

2021年05月11日 | 日本の歴史

豊臣 秀吉が一夜のうちに城が出現したかのように見せかけたとの伝承から『石垣山一夜城』とも呼ばれています。 エッ 一夜で  

『小田原城を遮(さえぎ)る大樹を悉(ことごと)く切る。小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く』や 『面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢 肝をつぶし、こはかの関白は天狗か 神か 、かように一夜の中に見事なる館 出来けるぞや』「大三川志」や 「北条記」に記され、後の一夜城伝説を生んだとのことです。

才知と算勘の能力を生かして、草履取から次第に出世した豊臣 秀吉は織田 信長に仕えて活躍。

信長の後継者となり天下統一を進めた。                                     四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出し、容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。

小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣 秀吉は、天正18(1590)年3月1日に京都を発し、4月6日に箱根町の早雲寺に本陣を構え、その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。

周囲9Kmにわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しい と判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めたとのことです。

普請は急ピッチで進み、5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを、秀吉は妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。         6月9~10日には奥州の雄、伊達 政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候(しこう)したようです。

その時 政宗は前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を初めとする諸将に賞賛されています。(木村宇右衛門覚書)                                 そして6月26日、秀吉は本陣を早雲寺から石垣山に移しました。

築城については『聚楽又は大阪の普請を数年させられ候に不相劣様』と、聚楽第や大阪城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣 秀吉の城郭です。

一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員して築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったようです。

小田原北条氏は、臣従を迫る豊臣 秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整え、特に小田原城に城下の街ごと囲む全長9Kmに及ぶ長大な総構を構築し、決戦に備えていた。                                                結果的に交渉は決裂。                                                小田原北条氏は、国境線を固めると共に小田原城に主力を投入、更に領内100ヵ所以上に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。

小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山一夜城に淀殿や参陣諸将の女房衆召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。

豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。                                 徳川 家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田 利家・上杉 景勝率いる北国勢が上野(こうずけ)国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。                                 長宗我部(ちょうそかべ)元親・九鬼 嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。

                                           総構により中世最大の規模を誇った小田原城には、約6万とも伝わる人々が籠り、豊臣 秀吉・徳川 家康をはじめ、織田 信雄・蒲生 氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多 秀家・池田 輝政・堀 秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヵ月余りに及ぶ攻防戦を展開した。

小田原北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され 、次第に孤立していった。

天正18年7月に至り北条 氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。                                          この行動に秀吉は感嘆し、氏直の父 氏政とその弟 氏照には切腹を命ずるが、氏直の命は助け高野山への追放とした。ここに戦国大名 小田原北条氏は滅亡した  

石垣山一夜城の二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分と北へ長方形に張り出した部分及び東の腰曲輪部分の三つの部分からなっています。 

『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているようですが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。

井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っています。

井戸曲輪は、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られています。

                                           こちらの石垣は特に当時の姿を留めている部分との事で驚きです。                                          井戸は二の丸から25mも下がった所にあり、今でも湧き出る水を見ることができます。

石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭とのことです。            石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積(のづらづ)みで、築城に際して西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されているそうです。

 

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