Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「バーダー・マインホフ 理想の果てに」ウリ・エデル

2009-08-02 14:20:18 | cinema
バーダー・マインホフ 理想の果てに [DVD]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)


バーダー・マインホフ公式サイト

バーダー・マインホフ 理想の果てに
DER BAADER MEINHOF KOMPLEX
2008ドイツ/フランス/チェコ
監督:ウリ・エデル
製作・脚本:ベルント・アイヒンガー、ウリ・エデル
原作:シュテファン・アウスト
出演:マルティナ・ゲデック(ウルリケ・マインホフ)、モーリッツ・ブライブトロイ(アンドレアス・バーダー)、ヨハンナ・ヴォカレク(グドルン・エンスリン)、ナディヤ・ウール(ブリギッテ・モーンハウプト)、アレクサンドラ・マリア・ララ(ペトラ・シェルム)、ブルーノ・ガンツ(ホルスト・ヘロルド)



どうやらこれからの文章は、バーダー・マインホフ・コンプレックスをめぐる断章、のようなことになるみたいだ。まとまった文章を書く気はさらさらなくしてしまった。まあ、いつものことだけど。

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ウリ・エデル監督作を観るのは『クリスチーネ・F』以来のことですが、両者はとてもよく似ていたのが印象的でした。
ともにある種の青春映画である点で、そしてまるで青春映画らしくない面持ちを持っていることで。

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このところ「あの時代」を題材とする映画がいくつかあるようだけれど、あれはなんだったのか、あるいはなんであるのかをどのように描いているだろうか。
思うのは、あの時代の過激な政治思想(とくくってしまうのはまだ早いが)は、真に正義感を持った人間たちによる無私の行動だったのか、それとも、権威を憎む若者らしいエネルギーの暴走がたまたま政治行動と結びつくのが時代の潮流だったということなのだろうか?いずれにしろそれに払われた犠牲はあまりに多く、それに見合う(何をもって見合うとするかは大きな問題だ)程度には社会矛盾は解消したのかというと決してそんな気はしない。

大鉈を振るって、あの時代の問題と行動を洗いざらい検証して乗り越えてしまえば人類は多少は幸福になるだろうと思うが、そう簡単にはいかないのだ。
結局この映画も、そう簡単にはいかないのだと結末を曖昧にしている。何一つ終わってはいないし、矛盾もテロもgoes onだ。

考える契機。
映画に託されるものはそのことに尽きるのだろう。そのことが映画的かどうかはまったくわからないが、映画だってある種のメディアであるからには、メディアとして機能することで失望したりはしない。考えて行動するための、指針ではなくて材料。それでいいのかもしれない。

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映画的に、よく作られていた映画であって、その点が妙に気にかかる。
冒頭のいきなりの群衆的暴力シーンで背景に流れるサスペンスフルな音楽から、途中かすかに聴こえるディープ・パープルやディジー・ミス・リジー、エンディングのボブディランまで。この映画の音楽はほとんどエンタテインメントだった。

音と題材との関係性のありようは驚くほどあの映画を想起させた。若松孝二『実録連合赤軍』である。これとあれの類似はいろいろあるが、まずは「実録」であろうと望んでいること、そして音楽が状況を盛り上げるものとして使われていること。
突き詰めるとなにか矛盾を感じさせるこの二つの特徴が、ワタシのなかに妙な居心地悪さを生む。「見てきたように」撮られているのに、これはどこまでも「演技」なんですよと、意識下で注釈を常に加えられているのだと思う。そう思うと、意外と(?)この二つの特徴は誠実なものなのかもしれない。

たとえば音楽がいっさいなかったとするならば、ワタシは納得感を持ってこの映画を見ることが出来ただろう。しかし、そこで隠蔽されるのはリアリズムというイズムだ。
いま求められているのはリアリズムなようでいて、実は、リアルに撮ったものに「これは虚像です。お忘れなく」というレッテルが張られた、酔えない酒なのかもしれない。その飲み心地の悪さ、居心地の悪さに、むしろ考える契機がある。

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原題はDER BAADER MEINHOF KOMPLEXで、こっちの方がかっこ良いよね~
KOMPLEXはもちろん英語ではCOMPLEX。
「複合体」であって、また「観念複合」「固定[強迫]観念」でもある語がくっついているところがいいと思うのだ。
これまた考える契機だ。。

彼らがドイツ赤軍をなのる経緯があまり明らかでないけれど、連合赤軍のように、深い経緯があるとも思えなかった。世界は共産主義革命へ進んでゆく、それゆえに革命者は赤軍を名乗る。これもまた真剣な見通しなのか、若気の思い込み(コンプレックス)なのか、わからない。

彼らは中東に出向きパレスチナ解放軍(PFLP?ファタハ?)のもとで訓練を受けたりするが、まったく真剣でなく(いや?彼らなりに真剣であったか?)、むしろフリーセックスと革命を結びつけたりしてイスラム教徒の前で傍若無人な振る舞いをして帰ってくる。
本気で西側帝国主義と戦うつもりなのか?わからない。

この映画では、彼らの行動は多面的なものとして扱われているように思う。彼らの良心からでた行動であるとともに、若い精神の暴走でもあったのだ、と。真剣な議論の一方で、深夜に車を乗り回しまどから銃を撃ってみたりする危険な遊戯も描いてみせる。一筋縄ではいかない。あれは混乱した(コンプレックス)現象なのだ。

そして、しかもなにも解決していないのだ。バーダーもマインホフも知らなかった第二、第三世代による共闘は、より過激さを増し、かつ無軌道だ。それはほんの30年前のことである。

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時代感覚を思い描いてみる。70年代とは、ドイツでのあの大規模な残虐行為がまだ「ほんの30年前」のことだった時代である。それを経験した世代はまだ父祖として社会の中枢にいて、それを経験していない世代は、父祖を「それを防げなかった世代」と見るだろう。
しかも、リアルタイムには、ユダヤの国による新たな民族浄化が行われている。あろうことか。そしてそれを後押しするアメリカという存在。
そのアメリカはベトナムを相手にしている。
「それを防げなかった世代」と同じ轍を踏まないようにはどうすればよいのか?という問いは、思えば切実なものなのではないだろうか。neinというべき相手は目の前にいる。父祖はそれに対してneinと言わなかった。ならば自分たちのすべきことはneinを形にすることだ。

このことは映画で、中心人物のひとりグドルンが父親に対して表明する叫びが表していたことだ。あの叫びでワタシは一気にこの70年代のメンタリティに引き込まれたと思う。

とりあえずほんの30年前、を二つ積み重ねて地続きの世界を眺めやること。
その長い視線の端を、自分の今の生活と繋いでみること。
そうしたらこの先の30年がみえるだろうか。
そんな視点を、わたしたちの共同体は持っているだろうか??

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おどろいたのは、映画にでてくる人物たちの「本気度」だ。冒頭の群衆シーンもそうだし、集会での人々の熱狂ぶり、銃撃戦のべらぼうなまでの弾丸投入量、裁判シーンでの被告側はもちろん裁判官たちのいらつき度とか、監獄での監視員との乱闘といい、爆弾テロでの爆破シーンといい、まったくもってすごい。度を超して本気である。あんなことが演技でできるものだろうか?しかも俳優はもちろん大量のエキストラのひとりひとりまでが、こぞって本気なのだ。
どんな映画に比べてもこれは度を超している。

おそらく、映画で見るたとえば暴力は、リアルという形をとる以上それはリアルという制度にそった様式化された暴力だ。リアルだ!と感心するとき、それはその様式に共鳴しているのであり、制度のなかでの出来事であり、そこから逃れることは容易でない。
なのに、この映画は、過剰な本気度でその制度をぶち破りかけている、と思える。
これについては上手く言うことが出来ない。制度の外のことを形にするのはまた困難なことだ。けれど・・・本気すぎる!と言っておこう。

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ブルーノ・ガンツとアレクサンドラ・マリア・ララを見ることを一つの目的として観に行ったのだが、そんなことは途中ですっかり忘れてしまっていた。

ブルーノは含蓄のある言葉を放つ賢人風の警察トップだった(よね?)あんなに老けていたかなあ?老けメイクなのかな?

アレクサンドラは、自身ないけど、車で検問突破して撃たれてしまう彼女だよね?
検問にさしかかったときの不安な表情が胸を突いた。

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あとはあれですね、この公式サイトは、なんとも貧弱だけれど、まあ豊潤なサイトをつくるべきとも一概には言えないのですけどねゴニョゴニョ
このサイト、キャストもスタッフもろくに情報が取れないのがね~存在意義があるのかしら~?というと、まあ、パンフ買えってことかもしれませんねゴニョゴニョ


おしまい。


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コメント (8)
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