Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

メルヴィル「白鯨」

2007-01-17 22:38:27 | book
白鯨―モービィ・ディック〈上〉

講談社

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白鯨―モービィ・ディック〈下〉

講談社

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モービィ・ディックの新訳版をやっと読んだ。
ボブ・ディランの最近の発言で「最近の音楽の全てを捨てて、メルヴィルのような小説を読むべきだ」というようなのがあったし、読まにゃいかん的強迫観念にかられて。

19世紀小説3大悲劇のひとつ(って言われてる?勝手に言ってるだけかな^^;)
エイハブ船長が因縁の白鯨モービィ・ディックを、偏執狂的執念で追い詰め、死闘のすえ、悲劇的な最期をとげる・・・・・
・・・・・
といわれているので、そういうものだと思って読んだら、さにあらず。
この小説は、19世紀のアメリカ捕鯨というものを、多面的に、微に入り細に入り文字通りあぶり出し、搾り出し、浮き立たせようという、総合小説的企ての書だった。
鯨についてのデノテーション、コノテーションの限りをあの手この手で書き尽くす。(これを「デノ手・コノ手」といったのは誰だったか??)その執念はまさにエイハブの執念に匹敵するものだ。

そもそも鯨とはどのような生き物のことを指すのか、という形態学的分類に数十ページ、当時の捕鯨船の描写に数十ページ、当時の捕鯨労働者の描写に数十ページ、鯨の解体の仕方から鯨油の搾り出しから精製の仕方まで数十ページ、あげくに白鯨の「白」にこだわって、そもそも白という色は・・・と、白をめぐる伝説から民族的情念からを書きつける、という調子で。
とにかく実に念が入っている。

それで退屈かというとそうではなく、描写が生き生きとしていて、引き込まれる。読んでいる間中自分も船の上にいて波に揺られているような気分だった。

**

思ったのは、基本的にこれはヒューマニズムの書だなということ。
物事の価値判断がドグマに寄らずフラットだ。
語り部であるイシュメールは、未開の邪教人クィークェグを友とし、その敬謔さと「正教」たるキリスト教の傍若無人を対置してみたりする。
「酔ったキリスト教徒と同室するよりしらふの異教徒と寝るほうがいい」
などという名言もあるし。
常に顔を出す聖書への言及に惑わされるが、実は宗教や文化の相対性、絶対的に正当なものなどありえないのだという思想に満ちている。

宗教への言及も、旧訳/新訳聖書にとどまらず、ネイティヴアメリカンの教えから、ヒンドゥー、ゾロアスター、イスラムと幅広い。相当の博識である。


でもいちばん気になるのは、博物誌的展開にいちいち影を落とす、やたらと厭世的な世界観だ。
これが鼻につくという人もいれば、ぐっとくるという人もいるだろう。
わたしなんか、後者のほう。なんともいい感じである(笑)

大西洋からはるばるインド洋をぬけ、とうとう太平洋に到達したときにも、こんな風である。

「大きくなだらかな起伏がどこまでもつづく水の大草原、この水のまきば、これが四大陸すべてを呑み込む共同の墓地なのであろうか・・(略)・・ここに溺死した夢がいくつあるのだろうか。溺死した瞑想、溺死した夢遊病がいくつあるのだろうか。」

すこしもすがすがしくなることがないのが、この小説の基本トーンなのだ。

**

というわけで、そういうトーンを時代の背景を考えつつ味わうというのがこの小説の楽しみかもしれない。
なにしろ、エイハブの最期は意外にもあっけない。追跡劇とエイハブの運命は、博物的総覧と厭世的な魂の器にすぎなかったのかもしれない。

やや厚めの文庫本2冊、どっぷりはまらせていただきました。


【追記】
作中に、「薔薇の蕾号」という船がでてくる。
調べた限り、「市民ケーン」やハーストとの直接の関わりはないように思えるが、「薔薇の蕾」と言う言葉は、ハーストの件以外でも欧米ではなにかしら特別な意味でもあるのかしら??と深読みして楽しんでみたりする。




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コメント (2)
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